価値観の共有
ポチョムキン卿
第1話 ラウンジにて
曜の午後三時。帝都ホテルのラウンジは、静かに時を吸い込むような気配に包まれていた。
磨き抜かれた床、深い焦げ茶のレザーソファ、足元を滑るように運ばれる銀のトレイ。
真理は、背筋を崩さずに座ったまま、前に置かれた白磁のカップを見下ろした。蒸気が、まるで高原の霧のようにやわらかく立ちのぼっている。
「変わらないね、凌くんは」
向かいに座る男が、少しだけ眉を動かした。
「俺は変わる理由がないから」
彼はそう言って笑った。照れたような笑み。
黒縁のメガネの奥にある目は、どこか警戒しているようにも見えた。
「でも、来てくれてありがとう。こうして会うの、たぶん十年ぶり?」
「そんなになるか。忘れてたな、時間ってやつ」
凌はそう言いながら、自分のカップに視線を落とした。だが、目の端はその下に控えたメニュー表の数字を捉えていた。
「……これ、三千円だってさ」
「そうね」
「真理は、これ高いと思わない?」
「思わない」
即答だった。真理は、少しだけ首を傾け、冷静な口調で続けた。
「この景色、この椅子のクッションの質、店員の動作の洗練、それらを含めての三千円。むしろ安いくらいじゃない?」
「そうか……」
凌は口の端を引きつらせた。コーヒーには手をつけず、視線だけがカップの縁をなぞる。
「SNSでさ、似たような投稿を見たんだ。
“高級ホテルのコーヒーで三千円取られたって文句言ってる人とは価値観を共有できない”って」
「ええ、それ、わたし」
「……え?」
「書いたの、わたしよ。二ヶ月くらい前。バズったの。いいね四万くらいだったかな」
凌はカップの取っ手に触れたまま、固まった。
「マジで?」
「マジ。まあ、一部からは叩かれたけどね。“上から目線”“意識高い系の見本市”って。いつものこと」
「それを、気にしないんだ」
「気にしてたら、SNSなんてやれないわよ」
真理の声は軽やかだった。だが、その言葉の裏には、どこか硬い芯のようなものがあった。
「……でもさ」
凌は、ようやくコーヒーに口をつけた。小さく啜る音。舌の上で転がすように味を確かめ、そして言った。
「俺は、ちょっと違和感を感じたんだ。その言い方に」
「違和感?」
「うん。“共有できない”って、ずいぶん断定的じゃないかと思ってさ。
誰がどんな理由で文句言ってるかなんて、その背景も知らないまま切り捨てるのは、ちょっと……冷たくない?」
「冷たくしてるのよ、わたしは。
他人の感情にいちいち付き合ってたら、自分の軸がすぐブレるから」
「それって、守ってるんじゃないの。自分の選択を」
真理のまつ毛がわずかに動いた。
それはほとんど、反射に近いものだった。
「たとえばさ」凌は言った。「俺だったら、三千円のコーヒーに文句言う人の気持ち、ちょっとわかる。
子どもを育てて、日々節約して、やっとのことで外食したら、“あ、これ一杯で家族の夕飯分か”って思う。それって、そんなに悪いことか?」
「悪くはない。でも、それを“高い”って切り捨てるのもどうかと思うのよ。
三千円のコーヒーは、その人の価値観で言えば“贅沢すぎる”のかもしれないけど、わたしにとっては、その空間や時間に払う当然の対価。
たぶん、お互いが“自分の基準”を絶対視してるだけなのよ」
「つまり、歩み寄る気はないってこと?」
「歩み寄りたい人には歩み寄る。でも、SNSに書くのは、ただの表明。わたしの世界は、こうです、って」
「表明する意味、ある?」
「……あるわよ。共鳴する誰かがいれば、それだけで意味になる」
凌はふうと息を吐いた。
彼の視線は、窓の外、霞んだ都市の輪郭へと向けられた。
「でも、共鳴できない誰かがそれを見て、傷つくこともあるよね」
「それも含めて、SNSよ」
真理はそう言ってカップに口をつけた。冷めかけたコーヒーは、味が締まっていた。
一口、飲み込んで、ふと笑った。
「それより、あの頃よりずいぶん言葉が角ばったね、凌くん」
「教師やってると、柔らかさって削れてくるのかもね。
言葉が強くなきゃ、生徒にも届かないし、保護者にも通じない。
……でも、そう言ってるうちに、何が本音かわかんなくなる」
「本音、今はどれ?」
「高いコーヒー飲んでるのに、貧乏くさい話してるな、って思ってる」
二人は、そこで笑った。苦くて、どこか救いのある笑いだった。
価値観の共有 ポチョムキン卿 @shizukichi
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