「優しさの温度」
ミナ
第1話
事務所の空気が、静かに重たい。
パソコンの前で、わたし——美月は、ひとり、固まっていた。
(…やっちゃった。ほんとに……)
今日の発注データ、間違えて昨日の分で上書きしちゃった。
取引先への連絡も遅れて、優斗先輩に任せる形になってしまった。
「美月」
低い声が落ちた。
思わず、ピクッと肩が震える。
「何やってんだよ。これは確認不足どころの話じゃない」
その声は冷たくて、鋭かった。
優斗先輩の目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「お前が触ったら、責任持てよ。なに、ミスして泣いてるだけで済まそうとしてんの?」
「っ……ちが、う……私……」
喉がつまって、涙がこぼれた。
(ちゃんとやろうと思ってたのに……でも、怖くなって、報告も……)
ぐずぐずに泣き崩れるわたしに、優斗先輩はしばらく何も言わなかった。
けれど、次の瞬間。
彼はため息をついて、ふっと腰を落とした。
「……ほら、泣くな。お前が泣いても、問題は消えない」
その声は、今度は、少しだけ優しかった。
「でも……俺が何度も言ったよな、報連相は基本だって」
「ご、ごめんなさい……」
わたしは、手のひらで涙をぬぐった。
優斗先輩は黙って、ティッシュの箱をわたしの前に置いた。
それだけの仕草なのに、なんだか胸が、ぎゅっとなる。
「今回のことは俺がフォローした。もう先方には謝っといた」
「っ、そんな……」
「でも次やったら、マジで俺、キレるからな」
「はい……」
「……泣いてる顔、似合わねぇよ。いつもの、トロいけど頑張ってる顔の方がマシ」
わたしのほっぺに指があたって、ちょん、と軽く突かれた。
ふいに目が合う。優斗先輩の瞳は、真剣だけど、ちゃんとあたたかかった。
「ちゃんと見てるから。だから、次はちゃんとやれ」
「……うん、わかりました……!」
わたしは、涙を止めて、うなずいた。
オフィスの午後。
照明の音さえ、遠く感じる。
(やらなきゃ……私が……)
さっきのミス。
優斗先輩がフォローしてくれた。
でも、それは“次はない”ってこと。
また何かを失う気がして、胸が苦しかった。
パソコンに向かったまま、手が動かない。
やらなきゃ、やらなきゃと思うほど、指先が震えた。
「……っ、え、なんで……動かない……?」
ガタッと椅子がきしむ。
息が、浅くなる。頭の中が真っ白になって、
立ち上がろうとした瞬間——
「おい、美月!」
優斗先輩の声が、かすかに聞こえた。
——でももう、耳に届いてなかった。
視界がぐらりと揺れて、意識が遠のく。
わたしは、そのまま、前のめりに倒れ込んだ。
•
気づけば、どこかの部屋のソファだった。
ブレザーの上に、優斗先輩の上着がかけられている。
「……無理しすぎなんだよ、ほんとに……」
どこか怒っているような声。
でも、それ以上に心配がにじんでいた。
「今日はもう帰れ。送ってく——」
「やだ……っ!」
かすれた声で叫んでた。
自分の声なのに、他人みたいに聞こえた。
「やる……やるから……私、また……すてられるの、やだ……」
何を言ってるのか、自分でもわからなかった。
でも、ずっと昔に、そう言われた気がした。
「おまえは役に立たない」
「いらない子だ」
そんな記憶が、胸を突いた。
その瞬間、ぎゅっと身体を抱きしめられた。
「……誰が、捨てるなんて言ったよ」
優斗先輩の声が、今度はちゃんと聞こえた。
「俺はお前を手放すつもりなんて、一度もねぇよ」
その言葉が、心の奥に落ちてきた。
「ミスしたくらいで、お前の価値がなくなると思うな。俺は——お前の全部、ちゃんと見てる」
「……先輩……っ」
堰を切ったように、涙があふれた。
「……怖かったんだよな。ごめん、気づけなくて」
抱きしめた腕の中、ぬくもりが溶けていく。
ひとつひとつの言葉が、震えた心を包んでくれるみたいだった。
「お前は、ちゃんとここにいていいんだよ。俺がそう言ってんだから、信じろ」
その言葉が嬉しくて
ようやく安心して、目を閉じた。
「優しさの温度」 ミナ @miduki14
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