雪夜
すい
雪夜
えぇ、あの夜の事は今でも良く覚えております。
四つになる上の子が、急に腹が痛いと言い出して、厠に行かせたけれど、それでも痛がって。
医者に行こうにも下の子はまだ三月にもならない。
二人とも抱きかかえるわけにはいかないし、かと言って腹痛いとうずくまる子を歩かせるわけにもいかない。
折り悪く亭主は泊りがけの仕事で。
途方に暮れて、近所の家に頼もうと外へ出た時でした。
一人のお侍様が歩いてらした。
こちらの様子に気づき、どうしたのか聞かれて訳を話すと
「それはいけない」
そう仰って、上の子を抱き上げて、一緒に医者まで走って下さったんです。
かかりつけの町医者は、立派なお侍様と来たものだから、いつもの横柄な態度はどこへやら。あんな時でなけりゃ嫌味のひとつも言いたくなるくらい親切でしたよ。
薬をもらったら落ち着いたのか、うつらうつらし始めた子供を見て、安心したように笑ったお侍様は、明るい所で見たら思っていたより若くて、濃い眉の下の目が、幼子みたいに澄んでいました。
お名前を聞いても教えて下さらなくて、私が下の子のむつきを変えている間に、医者のかかりまで済ませてくださって。
それはさすがにいけませんと慌てたら、自分にも同じくらいの子がいるが、何も出来ぬ故に身代わりになってくれだなんて仰って。
どうしたものかと思っていたら、ふと聞かれました。
「のう、四つの子は、どこまで覚えているのだろうか」
「はい?」
「仕事ばかりで禄に構ってやれなんだ父の事を、覚えておけるのだろうか」
「そりゃあ、赤の他人の町人に、ここまでしてくださるお侍様のご子息様ですもの、うちの子よりずっと賢いでしょうし、覚えておくも何も、ご自慢の父上様でございましょう」
私がそう言うと、少し笑っておられました。
その笑い方が何だか酷く悲しそうで、胸のあたりがすっと冷たくなったのでございます。
お侍様はその笑顔のまますっと立ち上がると、
「では、仕事に行かねばならぬのでな。拙者はこれで。まだ雪は止みそうにない。それに、物騒な夜になりそうなのでな。しばらくここで過ごした方が良かろう。なぁ医者殿、良いな」
へぇ、と言って頭を下げる医者を尻目に、お侍様は外へ出て行かれました。
しんしんと降り続ける雪の中、差し出した傘を手で断って、歩いて行って。
その背中が闇に溶けそうで、何だか悲しくなって、何か上手い事言えたら良かったのだけど、生憎私には学がないから、言葉が見つからなくて。
ただ、消えそうな背中に向かって声張り上げて
「ありがとうございました。私も息子も、お侍様の事忘れませんよ」
それだけ言いました。
お侍様は少し振り返って、やっぱり悲しそうに笑っておられました。
そうしてすぐにまた背を向けて、歩いて行きました。
その背中が完全に見えなくなるまで、ただ突っ立って見送っておりました。
えぇ、左様でございます。あれは、元禄十五年、十二月十四日の夜の事でございます。
雪夜 すい @suisui0124
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