2031年3月9日
2031年3月9日。
よく晴れた日だった。
僕は国語の教員として、千葉県の高校に勤めている。今日は、人生で初めて担任を持った三年生たちの卒業式だった。
「これから、最後のホームルームを始めます」
「うわあ、最後かあ……」
「マジで卒業しちゃうんだな」
あちこちからこぼれる声に、少しだけ笑ってしまう。僕は板書を終えて、生徒たちを見渡した。
「最後に、皆さんに宿題を三つ出します。期限は……あなたたちが死ぬまでです」
ざわっとする教室の空気の中、僕は続けた。
「一つ目。きちんと、自分の気持ちを伝えられるようになること。
家族や友人、恋人、大切な人に、ちゃんと“ありがとう”と“愛してる”を伝えられる人になってください。
二つ目。本をたくさん読むこと。
現実だけが自分の世界にならないように、いろんな世界をのぞいてみてください。
そして三つ目……幸せになること。
誰かのせいにせず、自分の手で、自分の人生を幸せにすること。これが一番大事な宿題です」
言い終えた瞬間、生徒たちからは案の定、
「うえーい」
「先生、熱っ!」
なんて茶化す声が飛んできた。だけど教室の後ろで拍手してくれた保護者の姿や、涙を拭う子もいて、ちょっと救われた気がした。
「……じゃあ、これで最後のホームルームを終わります。起立、礼」
卒業生たちが教室をあとにしても、僕はしばらく席を立たなかった。
誰もいなくなった教室には、静けさと達成感と、ほんの少しの寂しさが残っていた。しかしずっと浸っているわけにもいかない。
僕は手始めに、自分の私物が詰まった本棚を片づけ始めた。
その棚には、あの日アメリカに持って行こうとして選んだ七冊の本と『あの花の後で』が並んでいた。
香菜は今も、僕の心の中で生きている。
それは、どこか遠い場所ではなく、たしかに“すぐそば”にいる感覚だった。
「お疲れさま。……よく頑張ったね」
ふいに、後ろから声が聞こえた。
けれど振り返っても、そこには誰もいなかった。
僕は微笑んで、本に視線を戻す。
「そうだな。すっごい大変だったけど、楽しかったよ」
そしてその夜、玉川と乾杯をした。
「じゃあ、神田幹人が初めて卒業生を送り出した記念に——乾杯!」
グラスが鳴る音が、小さく響いた。
玉川は今、康平さんと同じ会社に勤めている。彼がちゃんと働いている姿はあまり想像できないけれど、康平さんがいればきっと大丈夫だろう。
「教員生活はどうだ?」
「まあ、大変だけど……やりがいはあるよ」
久しぶりに飲む酒は、少しだけ甘く感じた。
「実は今日はお前に見せたいものがあってさ」
玉川がポケットから一通の封筒を取り出す。
「これ、武田香菜からのものなんだ」
『玉川連君へ
お元気ですか?
私はあなたにお願いがあって、この手紙を書いています。
お願いしたいのは、神田幹人のことです。
彼は、私がいなくなったあと、きっと悲しみに暮れると思います。
だから——私の代わりに、彼を支えてあげてください。
一人で倒れないように。
雨に濡れてしまわないように。
あなたにしかできない、大切な役割です。
そして、彼が一人でも歩けるようになったと感じたら、この手紙を見せてください。
幹人君。
今、あなたがこれを読んでいるということは、ちゃんと歩き始めた証です。
だから、もう一度言うね。
幸せになって。
武田香菜より』**
僕は、しばらく言葉が出なかった。
玉川が、どんな思いでこの手紙を今まで大切にしてくれていたのか。
そして、香菜がどんな思いで、彼に託したのか。
それを思うと、胸がいっぱいになった。
「……俺が支えるまでもなく、お前はちゃんと歩いてるけどな」
玉川が、照れ隠しのように笑って言った。
僕は、溢れそうになる涙をなんとかこらえながら、口を開いた。
「いや……そんなことない。玉川がいたから、今の僕がいるんだ。あの墓の前で、一緒に傘に入れてくれたこと——ずっと、覚えてる。大学を卒業しても、こうやって一緒に飲んで、悩みを聞いてくれて。……そんな君を、当たり前のように思ってた自分に、気づかされたよ。本当にありがとう」
「……いいんだよ。別に手紙があるからやってたわけじゃねえし。
俺がやりたくてやってただけだしな」
いつも近くにいてくれたことが、どれほどありがたかったか。
言葉にしても、きっと足りない。
「ただな、幹人。お前は、絶対に幸せになれよ。武田の分までな」
僕の目から、一筋の涙がこぼれた。
でも、その涙はもう、悲しみのものじゃなかった。
「……もちろん。必ずなるよ」
彼女がくれた日常の色が無くなることは、きっとない。
雪が降る日に、君と出会った 増井 龍大 @andoryuu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます