それから彼女と丘をのぼる

馬村 ありん

ヒントは情熱の丘

 いま思えば、生きるためのヒントはあの頃に示されていたんだと思う。


 人生に望むものは何かと問われれば、『快感』と即答する十代の少年だった。

 気持ちいいことだけに囲まれて生きていたい。辛いことはいらない。俺は自分を〈快楽主義者エピキュリアン〉だとみなしていた。


 だから高校時代には、学校近くの通称〈情熱の丘〉で額に汗しながら走り込みをする野球部員やラグビー部員のような連中を、冷めた目で見ていた。

 走っていると気持ちよくなってくることは知っている(ランナーズハイってやつだろ?)。

 けれど、快感を得るためにわざわざ小高い場所を上下するだなんて、効率が悪すぎない?

 この頃、学校帰りに俺はジムに通っていた。ジムでは無駄を排除して、効率的な筋トレをすることができた。女の子が好む「ソフトマッチョ」にボディメイクし、そのおかげかモテまくった。

 ベッドで女の子を腕に抱きながら、『あいつらはなんでスマートにやれないんだろう』なんてひとりでほくそ笑んでいた。


 教師連中とうまく付き合い、楽しめる程度にスポーツに打ち込み、苦にならない程度に勉強をする(幸運なことに勉強を楽しいと思える性質タチだった)。

 学校の裏手にあった誰も使ってない小屋でクラスの子とエッチした後、タバコを吸いながら〈情熱の丘〉で頑張ってる奴らの姿をながめた。そんな学生時代だった。


 この頃、人生はうまくいっていた。しかし、俺の心の奥底には『もっと楽になりたい』という願望がわだかまっていた。現在いま以上に、一切のわずらわしさを排して、ひたすら快楽を享受していたい。そんな願望が。

 でも、そこに罠が潜んでいたんだ。


 高校を出た後、某有名私立大学に進んだ。受験で苦労はしなかった。もちろん、それなりに勉強に打ち込んだ。まあ、試験の前日に女の子とディズニーデートするくらいの余裕はあったけど。

 大学時代の一年目は、寮で暮らした。ルームメイトはラガーマンで、まさに〈情熱の丘〉で汗を流しているような手合いだった。話は合わず、仲良くした記憶はない。ラガーマンも俺のことを嫌っていた。

 恋人は取っ替え引っ替えだったが、ある夜クラブでまさに〈運命の女ファム・ファタール〉というべき女の子と出会った。超有名国立大学の学生で、名前をすずといった。バラの香水を漂わせ、黒い口紅を塗った長い髪の女の子だった。


 すずとの交際は、俺の人生に決定的な変化をもたらした。

 麻薬だ。

 ある夜、高層マンションのすずの部屋でのことだ。『チョー楽しいものをもらったの』。銀紙をほどくと、中からは茶色の枯れた植物が姿を現した。それは大麻だった。新聞紙に包んで火をつけ、煙を吸った。羽が生えたみたいに体が軽くなり、あらゆることが面白くなった。

 この時、なんて快楽の効率がいいのだろうと俺は感心した。

 性行為のように肉体が疲れることもなく、飲酒のように長時間の副作用に苦しむこともない。

 快感という目的だけが、与えられる。

 それは、俺が人生に求める理想を具現化したもののひとつだった。

 大学の四年間、俺は麻薬にのめり込むことになった。


 ところで、何かの手違いで例のラガーマンとサシで酒を飲んだことがある。麻薬のことは伏せつつ、自分の人生の理想を語り聞かせた。

 それを聞いて彼はこう言った。

「お前は間違えている。快楽というのは相対的なものだろう。不快があるから愉快がある。愉快ばかりだと慣れて不感症になる。愉快を得るには不快も味合わなきゃ。愉快だけを味わうことはできないんだよ」

 などと言い、『だから〈情熱の丘〉で走り込みをしよう』と付け加えた。最後の蛇足はもしかしたら俺の記憶違いの可能性があるが、とにかくそのように覚えている。

 心が動かされたのは間違いないが、このとき俺はラガーマンの話に従うのはシャクだったので反発した。


 大学を出た後、俺は都内の会社に就職し、若くして係長の地位を得た。すずとは結婚した。

 順風満帆?

 でも、そのプライベートライフはボロボロだった。

 大麻に始まり、コカイン、幻覚剤、果ては覚醒剤にまで手を出していたのだ。


 ある日、すずが口をすべらせて、中毒者ドープであることを友人に告白した。罪悪感ゆえの行動だったようだ。とにかく、それが災いして、俺たちは麻取マトリにマークされた。それからまもなく、冷たい手錠が俺たちに掛けられることになった。すずは泣いていた。

 初犯ということで、裁判では執行猶予がついたが、失職し、更生施設での治療を余儀なくされた。


 そして、現在。

 俺がいる〈青前ケアセンター〉の敷地内には、〈情熱の丘〉を彷彿とさせる小高い場所がある。

 いま俺はそこに立っている。痩せた体に病院服をまといながら――バラ園の香りをふくんだそよ風が鼻先をかすめる。

 目を閉じると、脳裏をかすめるのは、あの頃の光景。運動に打ち込む部員たちの暑苦しい姿。

 あの頃わずらわしかったものが今は愛おしい。


 ヒントは、受け取った。

 俺は失ったものを取り戻せるだろうか?

 すず。

 彼女の手をとり、〈情熱の丘〉を上りたい。

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