第3話
年の瀬の買い出し
12月に入ると、街はクリスマスの飾りで賑やかになり、近所の商店街からは焼き芋の香ばしい匂いが漂ってくるようになった。
ある土曜日、父がふいに言った。
「今年の年越しは、おせちを作ってみようか」
「おせち? うちで?」
僕と美咲は顔を見合わせた。おせちは、毎年祖母の家で食べるものだとばかり思っていたから、少し驚いた。
「母さんがよく作ってくれてたんだ。昔はな」
懐かしそうに語る父の横顔を見て、僕はうなずいた。
「やってみよう。せっかくだし、挑戦したい」
それからの数日、僕と父は夜になるとおせち料理の作り方を調べ始めた。黒豆、田作り、伊達巻、煮しめ、紅白なます……。作ったことのない料理ばかりで、最初は正直ちょっと気が遠くなった。
「兄ちゃん、伊達巻ってなに? 卵焼き?」
「いや、たぶん、甘いやつ……ケーキみたいな卵焼き?」
「それ、美味しいの?」
「わからん」
笑いながら、近所のスーパーに材料を買いに出かけた。普段の買い物よりずっと多い食材に戸惑いながらも、店内で「人参どこだっけ」「ゴボウってどんな見た目だっけ」と探すのはちょっとした冒険のようだった。
家に帰ると、母のレシピノートの中に「おせちの下準備」というページを見つけた。
「やっぱり……母さん、全部書いてたんだな」
文字は少し色あせていたけれど、丁寧な言葉でひとつひとつ説明されていた。「煮しめの味つけは控えめに」「紅白なますは前日に仕込むと味が馴染む」——それはまるで、今でも母が台所のどこかにいて、教えてくれているような気がした。
家族三人のお正月
大晦日、台所はまるで戦場のようだった。父は昆布巻きに苦戦し、僕は伊達巻を焦がし、美咲は黒豆をうっかり二度もこぼした。
それでも、夕方にはどうにか「っぽい」おせちが完成した。
「これ、見た目は……それなりにいいんじゃないか?」
「味はともかく、すごくがんばった感はある」
「写真撮ろうよ! 母さんに見せたい」
元旦の朝、三人で並んでおせちを食べた。手作りだからこその不恰好さも、なんだか誇らしかった。特に、美咲が作ったきんとんは驚くほど美味しくて、父が二回もおかわりした。
食後、父がぽつりと呟いた。
「……来年も、三人で作れるといいな」
僕はその言葉に、何か少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じた。
卒業と未来
年が明けて、僕は三学期に入った。もうすぐ卒業式だった。
進路も決まり、春からは市内の専門学校に通うことになっている。家から通える場所を選んだのは、父や美咲と一緒にいたかったからだ。
「兄ちゃん、卒業式って泣くの?」
「さあな。でも、なんか泣く気がする」
「ふーん。私は泣かないもん」
「絶対泣くって」
春が近づくにつれて、空気が少しずつやわらかくなってきた。梅のつぼみがふくらみ、道ばたには小さな草花が顔を出す。
そんなある日、父が仕事から帰ると、少し疲れた様子だった。
「どうしたの?」
「いや……ちょっとな。検査結果が出たんだ」
それを聞いた瞬間、胸が冷たくなった。
「まさか、また入院?」
「まだ分からん。でも念のため、来週もう一度検査するって」
不安な気持ちはあったけれど、今の僕は、少しだけ前より強くなっていた。
「……大丈夫。今度は俺たちがちゃんと支えるから」
父はふっと笑った。
「頼もしくなったな。まるで、母さんが乗り移ったみたいだ」
春の朝
卒業式の日、父と美咲が校門の前まで見送りに来てくれた。
スーツ姿の父と、春色のコートを着た美咲。朝の光の中で、二人の笑顔がまぶしく見えた。
「行ってらっしゃい、翔太」
「兄ちゃん、かっこよく泣いてこいよ!」
僕はうなずいて、まっすぐ校舎へ向かった。
その日のお弁当には、父の字でこんなメモが添えられていた。
「卒業おめでとう。母さんがいなくても、ちゃんとここまで来た。立派だよ」
弁当箱を開けた瞬間、目がじんわりと熱くなった。
母のレシピ通りのだし巻き卵。少しだけ甘くて、やわらかくて、どこか懐かしい味がした。
そして、これから
春。桜の蕾がほころび、空気が少しだけ甘い。
父の再検査の結果は、大きな異常はなかった。しばらくは経過観察だけど、今のところは元気だ。
新生活が始まっても、僕は変わらず朝早く起きて弁当を作る。父の分と、美咲の分と、自分の分。
今ではすっかり「家族の味」になっただし巻き卵を、今日も三つ分焼いている。
台所に、湯気が立つ。
その向こうに、母さんの笑顔が見えたような気がした。
——僕たちは、今日も一緒に生きている。
父の弁当箱 ポチョムキン卿 @shizukichi
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