第2話
二学期のはじまり
夏が終わると、空気が少しずつ変わっていくのがわかった。蝉の声が静かになって、代わりに夜には鈴虫の鳴き声が聞こえるようになった。朝の空気がひんやりして、寝起きの足元が少し冷たい。
僕の弁当作りも、もうすっかり日課になっていた。料理自体はまだまだ勉強中だけど、「段取りよく」っていうのが最近の目標だ。たとえばご飯を炊くタイミング、おかずを冷ます順番、詰めるタイミング。これがうまくいくと、朝に余裕ができて、ちょっとした達成感がある。
父はまだ本調子とはいかないが、職場に復帰している。無理はしていないようで、仕事も時短勤務に切り替えてもらっていた。そんな父が先日、こんなことを言った。
「翔太。母さんのレシピ、まだ残ってるかもな」
「え? 本当?」
「たぶん、棚の奥に母さんのノートがあったはずだ」
言われてからすぐに、美咲と一緒に食器棚の引き出しを探した。しばらくガタガタやっていると、奥の方から小さな布にくるまれたノートが出てきた。
それは、母の字でびっしりとレシピが書かれたノートだった。
「うわ……本当にあったんだ」
「お母さんの字、きれい……」と美咲がぽつりと言った。
ノートの中には、「だし巻き卵(甘口)」「さばのみそ煮(骨抜きのやり方)」「ポテトサラダ(マヨは少なめ)」なんていう、メモ付きのレシピがたくさんあった。ページのすみには、「翔太が好き」「美咲、今日はいっぱい食べた」といった記録も残っていた。
その日、僕は夕飯に「母のポテトサラダ」を作ってみた。
じゃがいもを潰しすぎず、ハムは細かく刻んで、きゅうりは塩もみ。マヨネーズは少なめ、代わりにちょっと牛乳を混ぜて、滑らかさを出す。
完成した皿を出すと、父が一口食べてから、箸を止めた。
「……これ、母さんの味だな」
その言葉だけで、胸が熱くなった。
弁当作り、三人分
ある朝、美咲がぽつりと言った。
「兄ちゃんの弁当って、兄ちゃんのはいつもおかずが多いよね」
「そりゃあ、自分で詰めてるからな。ちょっとぐらい多くしたいじゃん」
「ずるーい!」
そのやりとりを聞いていた父が、コーヒーを飲みながら笑った。
「じゃあ今度は、美咲が兄ちゃんの弁当作ってやれば?」
「えっ!? 無理無理!」
美咲は慌てて手を振ったけど、その週の土曜日、突然「ねえ、練習してみたい」と僕に言ってきた。
その日は一緒に卵焼きを巻いた。最初は火が強すぎて焦げたけど、二回目はうまくいった。味見したら少ししょっぱかったけど、それでも「美咲、すごいよ」と僕は言った。
それから週に一度だけ、美咲が「お手伝いデー」をするようになった。
父の弁当、僕の弁当、そして自分の分。三つ並んだ弁当箱は、それぞれ少しずつ違う中身だけど、同じ台所で、同じ時間に作られたものだという温かさがあった。
秋の風と遠足の日
秋になると、美咲の学校で遠足があった。場所は少し遠い公園。お弁当持参で、バスで移動するらしい。
「兄ちゃん、私の弁当、特別にしてくれる?」
「特別って?」
「かわいくして! タコさんウィンナーとか、うさぎりんごとか!」
そんなのどうやって作るんだと思ったけれど、ネットにはたくさんの動画があって、案外どうにかなった。ただ赤いウィンナーがなくて探す方が大変だった。
迎えた遠足当日、美咲はお弁当を両手で抱えて、嬉しそうに出かけて行った。
帰宅後、食べ終えた弁当箱を開けると、中は空っぽだった。
「お友だちにも見せたらね、かわいいって言われたんだよ!」
そう言って、美咲は得意げに笑った。その笑顔を見て、僕もなんだか誇らしい気持ちになった。
母の命日
11月。風が冷たくなり始めた頃、母の命日がやってきた。
父と美咲と三人で、お墓参りに行った。お花と、母が好きだったカボチャの煮物と、手作りの弁当を持っていった。
お墓の前で、それぞれが静かに手を合わせた。
「母さん、弁当作り、ちゃんと続いてるよ」
「私も、ちょっとだけお手伝いしてるよ」
「美味しくできてるって、母さんも言ってると思うぞ」
帰り道、父がふとつぶやいた。
「お前たち、偉いな。……母さんが生きてたら、きっと毎朝笑ってたろうな」
それを聞いて、美咲が答えた。
「今でも笑ってるよ。たぶん、台所の天井から見てる」
父と僕は顔を見合わせて、吹き出した。
家族の味
季節が巡り、年末が近づいてきた。
今では、スーパーでも迷わなくなったし、目玉焼きの焼き加減だって分かるようになった。
でも、料理をするたびに思う。母の味は、簡単には追いつけない。あのやさしさも、あたたかさも、まだ僕には全然足りない。
けれど、朝の弁当箱に、父と美咲と、そして僕の分のご飯を詰めながら思うんだ。
この味が、いつか「うちの味」になるんだろうって。
僕たち三人が守っている、僕たちだけの味。
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