父の弁当箱

ポチョムキン卿

第1話

父の弁当箱

 朝五時。まだ薄暗いキッチンに、僕は静かに立っていた。

 鍋の中ではお湯がぐつぐつと音を立てている。フライパンでは卵焼きがじゅうっと音を立てた。火加減が強すぎたかもしれない。また焦げるかもしれない。

 だけどもう、怖くはなかった。


 僕は16歳の高校生。名前は翔太。母を亡くして5年、父と妹の美咲と三人で暮らしている。母が亡くなったあの日、僕はまだ小学六年生だった。優しかったけど芯の強い人だった。料理が上手で、いつも笑いながらキッチンに立っていた母の姿が今でも思い出せる。


 母の死後、父は泣かなかった。きっと夜中には泣いていたのかもしれないけど、僕たちの前では決して涙を見せなかった。その代わり、父は早朝に起きて、毎朝僕と美咲の弁当を作ってくれるようになった。


 「弁当があると、昼がちょっと楽しみになるだろ?」


 ある日、学校から帰ると父がリビングのソファでうずくまっていた。顔は真っ青で、額には冷や汗。僕は慌てて救急車を呼んだ。


 検査の結果は、過労と軽い狭心症だった。

 大事には至らなかったが、医師からは「しばらく安静に」と告げられた。退院してきた父は、僕に言った。

 「翔太、弁当はしばらく買ってくれ。美咲の分も学校で頼めるか?」

 でも、僕は頷かなかった。

 その夜、僕は「明日から俺が弁当を作る」そう決意した。


 翌朝。僕はまだ真っ暗な5時に目を覚ました。眠い目をこすりながら、冷蔵庫を開けた。前夜、ネットで見つけたレシピをスマホで確認しながら、卵を割って混ぜる。フライパンに油をひいて、卵液を流し込む――が、すぐに焦げた。


 おかずは味が薄くて、ご飯は炊きすぎてべちゃべちゃ。詰め方もぐちゃぐちゃ。それでも、父は笑って食べてくれた。

 「うまいよ。翔太が作ってくれたってだけで、何倍も美味しい」

 その言葉が嬉しくて、悔しくて、僕は思わずうるっとした。


 それからは、毎晩料理動画を見るのが習慣になった。炒め方、味のバランス、盛りつけ――すべてが初めてで、覚えることは山ほどあった。

 ネットでの調理記事や YouTube の料理チャンネルも役に立つのだった。


 週末になると、美咲と一緒に祖母の家に行って料理を習った。

 祖母の煮物は絶品で「これは母さんがよく作ってくれた味だね」と父がよく言っていた。


 その言葉が、僕の中でずっと残っていた。

 母の味。もう一度、あの味を、父に食べさせてあげたい。


 ある日、美咲が学校に弁当を忘れたとラインが来た。

 「兄ちゃん、どうしよう! 時間ない!」

 制服のまま家を飛び出そうとする美咲に、僕は弁当を手に持ち、自転車に飛び乗った。途中で曲がる角を間違えて、遅刻寸前に校門へ滑り込む。待っていた美咲は目を丸くしたあと無邪気に喜んでくれた。

 「ありがとう、兄ちゃん。今度はちゃんと持ってく」

 ほんの小さな出来事だったけれど、なんだか家族が少し近づいた気がした。


 ある夕方。

 明日の弁当の材料が足りないことに気づいた。

 僕は買い物袋を手に、近所のスーパーへ向かった。

 慣れないとスーパーもどこに何があるか、まるで分からない。

 「ピーマンはどこ? 片栗粉って何コーナー? 出汁用昆布ってこっち?」

 スマホに書いたメモを見ながらうろうろしちゃって、なかなかスーパーの買い出しには慣れない。


 買い物が終わって家に帰ると、キッチンで父が椅子に座っていた。久しぶりにエプロンをつけていた。

 「少しだけなら、やっても大丈夫って言われてね」

 父は、小鍋でなにかを煮ていた。

 「これ、母さんがよく作ってくれた肉じゃが。味、覚えてるかなと思って」

 父は目を細めて、優しく言った。スプーンですくって食べたその味は、確かに、母の味だった。甘くて、やさしくて、涙が出そうになる味。


 次の日、僕はその肉じゃがを弁当の真ん中に入れた。ちゃんと煮崩れないように、煮汁も漏れないように、小さなカップに入れて。

 「今日も仕事頑張ってね。母さんの味、ありがとう」そんな思いも込めて。


 時間が経ち、料理の腕も少しずつ上達していった。

 卵焼きは焦げずに巻けるようになったし、味付けも「薄い」と言われることはなくなった。料理はネットのレシピ通りに作るのが間違いがない早道と理解してからは、ネットの料理の記事を参考にしいろいろ工夫している。

 何より、父と美咲の「美味しいよ」の一言が、僕を支えていた。


 何時しか自分で弁当を作っていることが学校にも知られて、ずいぶんと驚かれた。

 「え、毎朝弁当作ってるの? しかも家族の分まで? すげぇな」

 そんな時、僕は照れ笑いしながら答える。

 「まあ、父ちゃんがずっとやってたから、今は俺の番って感じ」


 ある日の朝、美咲が僕の横で言った。

 「兄ちゃん、いつか私にも料理教えてよ」

 「え、美咲が? 包丁怖いって言ってなかった?」

 「うん、でも……兄ちゃんが頑張ってるの見てたら、私もなんかやりたくなった」

 僕は笑いながら頷いた。


 「じゃあ、今度一緒に卵焼きから始めよう」

 気づけば、家族三人での暮らしも、なんだかんだでうまく回っていた。

 母がいない寂しさは、いつまでも消えることはない。だけど、母が残してくれた味、言葉、笑顔は、ちゃんと僕たちの中に生きている。


 父が作ってくれた弁当箱。そこに詰まっていたものは、料理だけじゃなかった。

 思いやりと、優しさと、たくさんの愛情。

 今、僕もそれを弁当に込めている。


 「いってきます!」と、美咲が元気に玄関を出て行く。

 「おう、気をつけてな」と父が新聞を読みながら答える。


 僕はキッチンでエプロンをつけ弁当を詰めている。


 「今日も、いい一日になりますように」

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