habitableZone〜奇跡の一局〜

コウノトリ🐣

オンライン対局

 ――そのボタンは非常に軽かった。


 気軽な気持ちでどうせ当たることはないと対局申し込みのボタンを押す。私以外にも対局をしたくて待ち構えている人なんて多くいるから。ネットの対局は毎日のようにやっていた。それが動画サイトで動画を投稿している彼女と対局を行うだけ。何もいつもと変わらない。


 ボタンを押すこと13回、もはや作業のように彼女が他の人との対局が終われば申し込む。同じように申し込んでいる人は10人以上。当たる訳がないそう思っていた。


『habitableZoneさん、よろしくお願いします』


 見ていた動画で彼女は私のアカウント名を口にした。


「は? え? 嘘――」


 こんなふざけた名前にしているのは私くらいしかいない。ハビタブルゾーン――恒星からちょうどいい距離にある、生命が生まれるかもしれない奇跡の領域。理科のテストのために覚えようとつけた名前。気づけば、私の携帯ではもう彼女との対局が始まっていた。急いで携帯を持ち直し、対局に集中しようとする。

 動画の向こうにいる彼女と私は今、対局をしてもらっている。それだけで、気軽さが吹き飛び、目の前に彼女がいると錯覚する。いや――目の前にいる。少し遅れて声が届く、生配信中の左右に揺れて楽しそうに次の一手を指す彼女の姿が。


 もう何年もネット上で3000局をゆうに越えて対局をしてきたのに、指が震え、心が喉まで上がってくる。ダメ、ちょっと待って。小さい頃から対局し続けてきた私の方がきっと上手うわて


「大丈夫――だから落ち着いて」


 普段見ていた彼女の対局よりも今日は数段強く感じる。あれれ? 私ってこんなにネット上の人相手に緊張するような人だったっけ。短い時間で相手の攻撃が私に届くかを計算し、私の手を考える。


『ああ〜、負けちゃいましたね』


 そう彼女が呟いた時、私は攻めではなく、守りを選択していた。攻めれば、私は彼女の言う通り勝てていた。守ってしまったがために、彼女の猛攻を受け続ける。


「……ちょっと待って、よ」


 彼女の一手一手から突き刺さる『負けるかも知れない』という予感恐怖だけが私の脳に刻み込まれる。それでもなんとか、時間切れで私は彼女に勝つことができた。

 彼女が悔しそうに俯いている。そんな彼女の映る画面に私が胸を押さえてなんとか耐えたことを安堵している姿が画面に反射して映っていた。ああ、こんなに画面の向こうに人がいるってだけで緊張するんだ。


『habitableZoneさん、ありがとうございました』


 自分の殻に引きこもって外との繋がりを持たない私と有名配信者の彼女との決して交わることがない奇跡の対局。彼女は次の希望者との対局へと移っていた。彼女は、こんな緊張を抱えながらも、何局も何局も、ずっと指し続けていたんだ。

 ネットは向こう側に人がいるって知っていても知らなかった。ただ気軽に発言して遊ぶだけだった、無機質な電子の海。それは引きこもりの私にとって外と繋がれる奇跡の空間なんだって知れた。電子の海の向こうに私と同じ人がいて同じ時間を共有しているんだなって。


 数時間が経って、冷静になった私は彼女との奇跡の一局を見返して解析をかけた。青が最善で赤が最悪。お互い緊張していたのかな。形勢判断のグラフは真っ赤マークに染まっていた。

 下がっては上がってを繰り返す心音計のようなグラフ。あの日、私たちはどちらが勝ってもおかしくなかった。


これまで、私がネット対局にお礼を言ったことはきっとなかった。それでも――


「〇〇さん、対局ありがとうございました」


 彼女はもうすでに別の誰かと対局している。でも私は、あの奇跡の一局に、今さらのお礼を伝えた――たとえ届かなくても伝えたかった。

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