夜明け前の灯台守

 キーボードを叩く音が、深夜のカフェに小さく響く。もうとっくに閉店時間は過ぎていて、客は誰もいない。薄暗い照明の下、カウンターの隅でノートパソコンを開いているのは、この店の主である僕、月島だ。

 外は、まだ梅雨入り宣言こそされていないけれど、いつ降り出してもおかしくないような、重く湿った空気が街を包んでいる。昼間の賑わいが嘘のように静まり返った通りを、時折、車のヘッドライトがするりと滑っていくのが窓越しに見えた。


 僕には、ささやかな秘密がある。

 それは、この店の主である「月島」とは別に、もう一つの顔を持っているということだ。

 ハンドルネーム「Kagerou」。

 あるチャットルームで、僕はそう名乗っている。そして、そこで「螢」さんと名乗る一人の女性と、言葉を交わしていた。


 彼女の存在を最初に意識したのは、偶然見つけた、誰に見せるでもなくひっそりと公開されていたイラストだった。

 それは、決して技術的に上手いとか、そういう類のものではなかったかもしれない。けれど、その絵には、言葉ではうまく言い表せないような、淡く、そして確かな光が宿っているように感じたんだ。まるで、深い霧の立ち込める森の中で、迷子の子供が必死に灯す、小さなランプの灯りのような。

 その光に、どうしようもなく惹かれた。そして、この光を守りたい、と思った。


 だから、僕は「Kagerou」になった。

 現実の僕、月島として彼女に声をかけることもできたかもしれない。でも、それでは駄目な気がしたんだ。僕という実体のある存在が介在することで、彼女の繊細な光が、ほんの少しでも曇ってしまうことを恐れたから。

 カゲロウ――陽炎。実体のない、揺らめく影のような存在。それが、僕が彼女に近づくための、唯一の仮面だった。


『こんばんは、カゲロウさん』

 モニターに彼女のログイン通知が表示されると、いつも少しだけ胸が高鳴るのを感じる。

『螢さん。今夜も、雨が降りそうだね』

 僕は、できるだけ簡潔に、そして彼女が安心できるような言葉を選ぶ。彼女の心にそっと寄り添い、彼女自身が自分の力で立ち上がれるように、ほんの少しだけ背中を押す。それが「Kagerou」としての僕の役割だと思っていた。


 彼女は、時々、僕に自分のことを話してくれた。

 SNSでの辛い経験。現実の人間関係の息苦しさ。誰にも理解されないと感じる孤独。

 その一つ一つの言葉が、まるで自分のことのように胸に迫った。僕にも、似たような経験があったからかもしれない。誰にも本当の自分を曝け出せず、ただ透明な壁の内側で、世界を眺めているような、そんな時期が。


 だから、彼女のイラストを見た時、すぐに分かったんだ。

 彼女が描く光は、彼女自身の心の叫びであり、同時に、彼女だけが持つことのできる、かけがえのない才能なのだと。

「君の絵にはね、他の誰も気づかないような、小さな、でも確かな光が描かれているよ」

 そう伝えた時の、彼女の戸惑いと、そして微かな喜びが混じったような返信を、僕は今でも鮮明に覚えている。


 ある日、僕のカフェに、一人の女性客がやってきた。

 俯きがちで、どこか自信なさげな佇まい。でも、その瞳の奥には、あのイラストに描かれていたのと同じ、静かで純粋な光が揺らめいているのが見えた。

 彼女が落としたスケッチブック。偶然開いてしまったページに描かれていたのは、紛れもなく、僕がチャットルームの向こう側で見ていた、あの光だった。

「すごく、いいですね。なんだか、心が洗われるみたいだ」

 思わず口から出た言葉は、紛れもなく僕、月島としての本心だった。

 彼女は驚いたように僕を見て、そして、すぐに目を逸らしたけれど。


 それから、彼女――螢さんは、時々カフェに来てくれるようになった。

 彼女が淹れたコーヒーを飲む姿をカウンター越しに眺めながら、僕は「Kagerou」であることと、「月島」であることの境界線が、少しずつ曖昧になっていくのを感じていた。

 彼女に、もっと近づきたい。でも、近づけば近づくほど、「Kagerou」という幻は消えてしまうかもしれない。そのジレンマが、僕の胸を静かに締め付けた。


 螢さんが、「ノイズ」というハッカーに僕のことを調べさせようとしていると知った時、潮時が来たのだと悟った。

「Kagerou」は、あくまで彼女の心を守るための、一時的なシェルターのようなものだ。いつまでもそこに留まっていてはいけない。彼女は、自分の足で、現実の世界へと歩き出すべきなんだ。

 そして、僕もまた、「Kagerou」という仮面を脱ぎ捨てて、一人の人間として彼女と向き合うべきなのかもしれない、と。


『螢さん。ありがとう』

『僕は、もうすぐ消えるかもしれない。でも、君と話した時間は、僕にとっても、本物だったと思ってる』

 最後のメッセージを送る指は、少しだけ震えていた。

 これで良かったのだろうか。彼女を傷つけてしまうのではないだろうか。

 でも、信じたかった。彼女の中にある、あの確かな光の強さを。


 チャットルームを閉じた後、僕はしばらくの間、何も手につかなかった。

 まるで、自分の一部がごっそりと抜け落ちてしまったような、そんな喪失感。

 でも、後悔はなかった。


 数日後、螢さんが、あのスケッチブックを持ってカフェにやってきた。

 おずおずと差し出されたそれを受け取り、ページをめくる。

 そこには、以前よりも少しだけ力強さを増した線で、様々な風景や、人々の表情が描かれていた。そして、どの絵にも、やっぱりあの優しい光が灯っていた。

「やっぱり、螢さんの絵、僕はすごく好きだな」

 そう言うと、彼女は、はにかむように、でも確かな笑顔を見せてくれた。

 その笑顔を見た時、僕の中で、何かがふっと軽くなったような気がした。


「Kagerou」は消えた。でも、僕と螢さんの繋がりが、完全に消えてしまったわけじゃない。

 これからは、このカフェの主である月島として、彼女を見守っていこう。

 彼女が、自分の力で、もっと大きな光を灯していくのを、一番近くで。


 窓の外は、いつの間にか雨が上がっていた。

 雲の切れ間から差し込む月光が、カウンターの上に置かれた、空のコーヒーカップを静かに照らし出している。

 それはまるで、夜明け前の、ほんの束の間の静寂のようだった。

 そして、その静寂の向こうに、新しい朝の気配が、確かに感じられるような気がした。

 僕自身の心にも、そして、きっと彼女の心にも。


 それは、本当にささやかな、でも確かな希望の光だった。

 僕が灯台守として見つめていたのは、彼女という名の、夜明け前の海だったのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

梅雨の夜、螢は光る 或 るい @aru_rui

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ