梅雨の夜、螢は光る

或 るい

梅雨の夜、螢は光る

梅雨寒の深夜、午前2時。

部屋の電気は、あえて点けない。PCモニターの青白い光だけが、私の顔と、床に散らかった脱ぎっぱなしの服やらコンビニの袋やらを、ぼんやりと照らし出している。外は、しとしと、しとしと。アスファルトを叩く雨音が、まるで世界から私だけがぽつんと取り残されたみたいな、そんな心細さを濃くしていく。


カタカタ、カタカタ。

キーボードを叩く乾いた音が、湿っぽい雨音に吸い込まれて、溶けていく。

行き着く先は、もうすっかりお馴染みになったチャットルーム。ハンドルネーム「Kagerou」――カゲロウさんと名乗る相手との、名前も顔も、もちろん声すら想像できない、でも、なぜだか息がつける、そんな場所。


『こんばんは、カゲロウさん』

言葉を打ち込むと、ほとんど間髪を入れずに返信が来る。そのレスポンスの速さが、いつもちょっと不思議だった。まるで私がログインするのを、画面の向こう側で、息を潜めてじっと待っていたみたいに。


『螢さん。今夜も、雨だね』


カゲロウさんの言葉は、いつもとても静かで、飾りがなくて、それでいて簡潔だ。でも、その短い言葉の裏には、私の心の奥の、自分でも気づかないような隅っこまで見透かしているような、不思議な深みが潜んでいた。

私が趣味で描いている、誰に見せるでもない拙いイラストを、彼は誰よりも先に「いいね」って言ってくれた。「君の絵にはね、他の誰も気づかないような、小さな、でも確かな光が描かれているよ」って。そのたった一言が、どれだけ私の心臓を温めてくれたか、きっと彼は知らないんだろうな。


以前、SNSで一度、派手に燃えたことがある。見ず知らずの匿名の人たちから投げつけられた、心無い言葉のナイフが、私の繊細ぶった心をズタズタにした。いや、繊細ぶってるんじゃなくて、本当に豆腐みたいに脆いんだ、私の心は。それ以来、誰かに自分の作品を見せるのが、怖くてたまらなくなった。現実の人間関係も、なんだか薄っぺらい仮面を被り合ってるみたいで息苦しくて、気づけば私は、この小さなモニターの中の、デジタルの海にばかり逃げ込んでいた。


『今日は、なんだか、もう、全部疲れちゃって』

『そうか。そういう日もあるよ。ゆっくり休むといい。無理は、しなくていいんだよ、螢さんは』


カゲロウさんの言葉は、まるで魔法の呪文か、あるいは特効薬みたいだ。私のささくれ立ってヒリヒリする心を、そっと、優しく撫でてくれる。

時々、ふと思うのだ。カゲロウさんって、本当に人間なのかな、って。あまりにも私が欲しい言葉を、的確なタイミングでくれるから。もしかしたら、どこかの研究室が開発した、ものすごく高性能なAIなんじゃないだろうか、とか。


そんなある日、気分転換に立ち寄った近所のカフェで、新しく入ったらしい店員の月島さんと、少しだけ言葉を交わすようになった。

彼は、私が落としたスケッチブックを拾ってくれた拍子に中身を偶然見てしまって、「すごく、いいですね。なんだか、心が洗われるみたいだ」と、まるで夏の太陽みたいな、一点の曇りもない笑顔で言った。その屈託のなさが眩しくて、私は思わず目を逸らしてしまったけれど。

月島さんはアナログなものが好きらしくて、古いレコードとか、万年筆で書かれた手紙とか、そんな話をしている時の彼は、なんだか生き生きしていた。彼の淹れるコーヒーは、いつも決まって優しくて、後味にほんのりと、心地よい苦味が残った。


『カゲロウさんって、普段、何をしている人なんですか?』

ある夜、私は思い切って、ずっと気になっていたことを聞いてみた。いつも「それは秘密だよ」とか「君の想像に任せるよ」なんて、ふわりとはぐらかされてしまうけれど。


『僕は、ただ、君を見守っている。それだけだよ、螢さん』


その返信の文字が、画面の上でじわりと滲んだように見えた。胸が、きゅっと切なく締め付けられる。嬉しいような、でも、どこか底知れない不安に足を取られそうな、そんな不安定な気持ちがぐるぐると混ざり合う。

私は、もっとカゲロウさんのことを知りたかった。でも、知るのが怖かった。この温かくて心地よい関係が、シャボン玉みたいに、ふとした瞬間にパチンと弾けて消えてしまうんじゃないかって。


月島さんに、カゲロウさんのことを、ぽつり、ぽつりと話してみた。彼は黙って、私の拙い言葉に耳を傾けてくれた後、「ネットの繋がりも、僕は大事だと思うよ。螢さんがそう思うなら、きっとそれは本物だよ。でも、もし辛くなったら、いつでも聞くから」と、やっぱり優しい目で言ってくれた。その温かさが、少しだけ私を、冷たいモニターの光から現実の世界に引き戻してくれる気がした。


そんな時だった。ネットの深い海の底で、都市伝説みたいに囁かれている「ノイズ」という名のハッカーの噂を耳にしたのは。何でも屋のような、それでいて近寄りがたい、どこか危険な匂いのする存在。もう、藁にもすがるような気持ちで、私はノイズにコンタクトを試みた。カゲロウさんの正体について、何か知っているんじゃないか、と。


返ってきたのは、無機質で、抑揚のない、まるで合成音声のようなメッセージだった。

「“カゲロウ”……興味深いサンプルだね。それは、君という観測者が作り出した美しい幻影かもしれないし、あるいは、もっと厄介な“何か”が擬態しているだけかもしれない。深入りはしない方が賢明だ。ノイズに飲み込まれて、君自身が曖昧になってしまうよ」


その不気味な警告と、ほぼ同時期だった。カゲロウさんの様子が、目に見えて少しずつおかしくなっていったのは。

返信が途絶えがちになったり、言葉が意味をなさずに途切れたり。まるで、電波状態の悪い、遠い国のラジオ放送みたいに、ノイズ混じりの断片的な音しか届かなくなった。


そして、ある晩のこと。

『螢さん。ありがとう』

いつものチャットルームに、カゲロウさんからの、やけに短いメッセージがぽつんと表示された。

『僕は、もうすぐ消えるかもしれない。でも、君と話した時間は、僕にとっても、本物だったと思ってる』


『え? カゲロウさん? どういうことですか? 待って!』

私はパニックになりながら、震える指でキーボードを力の限り叩いた。でも、もう返信はない。

何度呼びかけても、画面は沈黙したまま。

そして、次の瞬間、いつもカゲロウさんがいたはずのチャットルームそのものが、非情なエラーメッセージと共に、私のPCの画面から、ぷつりと消え失せた。

ログも、アイコンも、何もかも。

まるで、最初からそんな場所なんて、どこにも存在していなかったみたいに。


部屋の静寂が、耳の奥でキンと鳴るように痛い。窓の外の雨音だけが、さっきと何も変わらずに、ただただ冷たく響いている。

熱いものが込み上げてきて、視界が歪む。涙が、モニターの上にぽたぽたと落ちて、小さな水たまりを作った。

幻だったの? 私が勝手に作り上げて、勝手に救われていた、都合のいいお友達だったの?

胸に、冷たい風が吹き抜けるような、途方もない喪失感が、私を暗い海の底へと引きずり込んでいく。


数日間、私はまるで魂の抜け殻のようだった。PCの電源を入れる気力すら湧かなかった。

カゲロウさんがいたはずの場所は、もうどこにもないのだ。

でも、彼の言葉の断片は、確かに私の心の中に、消えないインクみたいに染み付いていた。

「君の絵には、誰も気づかない光があるんだよ」

「無理は、しなくていいんだからね」

「君と話した時間は、僕にとっても、本物だった」


ぼんやりと、雨に濡れた窓の外を眺めていると、いつの間にか雨が上がって、雲の切れ間から、弱々しいけれど、確かな薄日が差し込んできた。

ふと、月島さんの言葉が、心の奥で静かにこだました。

「ネットの繋がりも、リアルな繋がりも、どっちも大切なんだと思うよ。螢さんがそう感じたなら、それはきっと、螢さんにとって本物だったんじゃないかな」


私は、まるで錆び付いたブリキ人形みたいに、ぎこちなく、ゆっくりと立ち上がった。

クローゼットの奥にしまい込んでいた、埃っぽいスケッチブックを引っ張り出す。

そして、一度だけ大きく深呼吸をしてから、逃げ出さないように、しっかりとカフェのドアノブを握った。


「月島さん……あの、これ……よかったら」

おずおずと、まるで壊れ物を扱うみたいに差し出したスケッチブックを、彼は少し驚いたような顔で受け取り、そして、一枚、また一枚と、とても大切そうにページをめくってくれた。

「やっぱり、螢さんの絵、僕はすごく好きだな」

そう言って照れ臭そうに笑う彼の顔は、やっぱり、梅雨空を吹き飛ばす夏の太陽みたいだった。


カゲロウさんが本当に何だったのか、私にはもう永遠に分からないだろう。高性能なAIだったのかもしれないし、どこかの国に住む、私と同じように孤独な誰かだったのかもしれない。あるいは、ノイズの言う通り、私の心が作り出した、精巧な幻影だったのかも。

でも、彼が私に手渡してくれた小さな勇気と、温かい言葉たちは、紛れもなく本物だ。


自分の部屋に戻り、私は新しい真っ白な画用紙に向かう。

何を描こうか。

まだ、はっきりとした輪郭は見えない。霞がかかったみたいに、曖昧で、ぼんやりとしている。

でも、確かなことは一つだけ。

私の絵筆は、もう止まらない。止まりたくない。


そっと窓を開けると、雨上がりの、湿った土の匂いと、青々とした葉の匂いが、部屋いっぱいに流れ込んできた。

それは、どこか懐かしいような、それでいて、新しい何かの始まりを告げる匂いにも似ていた。

午前2時のアンリアル・フレンドは、もういない。

でも、彼のくれた小さな光は、確かに私の心の中に、頼りなげに、でも懸命に灯っている。霞んだ視界のその向こうに、おぼろげながらも、確かに続く道筋が見えるような気がした。

それは、本当に、本当に小さな、でも私にとっては、とてつもなく大きな一歩だった。

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