第9話「氷原にひとつ、灯る声」 (ペンギンの記憶)
風が鳴いていた。
氷を削るような鋭い音が、世界を白く満たしていた。
南極の空は広い。
広すぎて、時々、自分が一羽で浮かんでいるような気がした。
私は、彼女を見ていた。
群れの中でいつも静かに立ち、
雪の粒をくちばしで払う姿が好きだった。
春になると、彼女は別のオスと並び、
ふたりで寄り添って歩いていた。
恋が叶わないのは分かっていた。
でも、それでいいと思っていた。
彼女が笑っていれば、それで。
やがて彼女は卵を産んだ。
相棒のオスがその卵を足にのせ、
身体を丸めて守り始めた。
私は遠くから、それを見ていた。
胸が少し痛んだが、風は優しかった。
嵐の前触れは突然だった。
空が唸った。
氷が軋んだ。
吹雪が氷原を襲い、視界が白く染まる。
そのときだった。
海で餌を探していた彼女の鳴き声がした。
叫びにも、祈りにも聞こえる声。
氷縁に立っていた相棒のオスが、それに気づいた。
海を覗いた瞬間――
黒い影が水中を走った。
ヒョウアザラシ。
その巨大な影が、彼女に襲いかかった。
相棒のオスは迷わず海へ飛び込んだ。
嵐の海へ。
氷が砕け、波が跳ね、
二羽の姿は渦の中に溶けるように消えた。
そして、氷原には――
守られるはずだった卵だけが、転がっていた。
吹雪の中で冷気に奪われ、
命の灯が消えかけていた。
私は走った。
心が先に動き、身体がそれを追った。
卵のそばに立つと、
風は刃のようで、
氷は悲鳴のように軋んでいた。
でも私は、迷わず足を差し入れた。
この小さな命を、
“彼女の未来”を、
私の足の上へ。
腹の羽で覆い、
風を遮り、
ただ立ち続けた。
夜と昼の境いが分からないほどの時間が過ぎた。
飢え、寒さ、孤独――
全てが私をゆっくり奪っていった。
それでも。
卵の下から小さな音がしたとき、
胸が熱くなった。
コツ……
コツ……
命が、世界を叩いていた。
やがて殻が割れ、
雛が顔を出した。
産毛は濡れて、震えていて、
でもその瞳は、まっすぐに私を映した。
「……あなたが、父さん?」
そんなふうに感じた。
私は微笑むように喉を鳴らした。
声は風に溶けたが、
雛には届いた気がした。
しかし、身体はもう限界だった。
氷が揺れ、足が震え、視界がかすむ。
そのとき――
風の向こうから声が聞こえた。
――キュルルルル!!
彼女の声。
そして、彼女が愛した相棒の声。
遠くの氷原の端に、
二羽の姿が見えた。
嵐の海で漂い、遠回りに流され、
それでも諦めずに戻ってきたのだ。
彼女は雛を見て叫び、
雛も弱い声で応えた。
私は足を崩し、氷の上に倒れた。
彼女が駆け寄り、私のそばに立った。
その目は、涙のように光っていた。
彼女は静かに頭を寄せて囁いた。
『……あなたが温めてくれたのね……
この子の命は、あなたが繋いだのよ……』
私は雛を見た。
未来を抱いた、小さな命。
これでいい。
これで、すべてが報われた。
私はそっと目を閉じた。
風が優しくなり、
遠くで雛が鳴いた。
その声は、私の最期の朝を照らしていた。
朝日が氷原を金色に染めた。
雛は母に寄り添いながら、時折私の方を見て鳴いた。
彼女は氷に落ちた私の影に向かって静かに言った。
『あなたの祈りは、ちゃんと届いたわ……』
そして陽はまた昇る。
MANIAL(マニアル)〜この命、何度目だっけ?〜 @Ilysiasnorm
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。MANIAL(マニアル)〜この命、何度目だっけ?〜の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます