第8話「深き海に、星の歌を (クジラの記憶)
海は、永遠のように静かだった。
底知れぬ青の中で、私は子と共に漂っていた。
彼はまだ小さく、私の腹の下に身を寄せて眠る。
息を吸うたびに、背中が小さく膨らむのが見えた。
その温もりが、私に生きる理由をくれた。
私は歌う。
深く、長く、海そのものと溶け合うように。
それは道しるべであり、祈りであり、愛の記憶だった。
「この声を、いつかあの子が覚えてくれますように。」
太陽の光が氷の隙間から射し込む。
遠くの空には極光が揺れ、海面を銀色に照らしていた。
子はその光を追うように、ゆっくりと泳ぎ出す。
私は穏やかに見守った。
この海は広く、深く、そして時に残酷だ。
だが、今のあの子の目には、まだ“世界”しか映っていない。
そのときだった。
遠くから、耳を裂くような音が押し寄せた。
波のようではない。風のようでもない。
それは“人の音”。
鉄の腹を持つ獣――ソナーが、海を震わせていた。
私の声が、掻き消された。
方向感覚が崩れ、子の姿が霞んでいく。
一度鳴こうとしたが、音は波に押し潰された。
「――聞こえない。」
海が沈黙した。
氷が軋み、泡の音さえ遠くなる。
気づけば、子は見えなくなっていた。
嵐が来た。
風が海面を裂き、雪が落ちてきた。
私は声を枯らして呼び続けたが、応えはない。
やがて微かな光――氷の隙間の下に、小さな影が見えた。
そこにいた。
冷たい水の中で、子はまだ生きていた。
だが、上へ行く道がない。
氷の壁が彼を閉じ込めていた。
私は衝突した。
頭で、尾で、全身で――何度も。
氷が鳴き、ひびが走り、
冷たい刃のような破片が私の背を裂いた。
痛みも、恐れも、もう感じなかった。
ただ一つの思いが残っていた。
> 「この声を、もう一度、あの子に届けたい。」
私は歌った。
最後の力で、深い海に響かせた。
その音は、氷を震わせ、遠くの海まで届いた。
星のように散らばる泡が、夜空の光に似て見えた。
そして――
氷の向こうで、小さな声が応えた。
それは、初めて聞くあの子の“歌”だった。
弱く、震えて、けれど確かに生きていた。
その瞬間、世界が満たされた。
私はゆっくりと目を閉じた。
声が途切れても、歌は止まらなかった。
夜明け。
海は再び静けさを取り戻した。
空には極光が薄れて、東の水平線が金に染まっていた。
子は、母のいない海をゆっくりと泳いでいた。
小さな声で、母の歌を真似しながら――。
海は覚えている。
あの歌も、あの鼓動も。
たとえ姿が消えても、声は波に溶け、
次の命の道しるべとなる。
この命、何度目だっけ?
忘れたけれど――
あの子の声が、私の“続き”みたいに響いている。
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