君がくれた初めての音
宵宮祀花
歌う指先
黄昏時の音楽室。夕暮れが照らすピアノに向かい合う一人の少年と、その傍に立つもう一人の少年。ピアノに両手の指を乗せた少年は脱色した金髪と鋭い目つきをしており、制服も着崩している。傍らで見守っているほうの少年はサラサラの黒髪と黒い瞳、色白の肌に長い手指、そして制服も規定通りに着ている。
彼らを知らない人が見れば、黒髪の少年のほうがピアノを巧みに弾きそうに見えることだろうが。
金髪の少年の指が、鍵盤に沈む。軽やかな音色が音楽室内に響く。
譜面も置かず弾むように鍵盤の上を踊る指も、窓から吹き込む微風に揺れる乾いた金髪も、僅かにしわが寄った眉間も、黒髪の少年にとっては見慣れた光景だ。
あらゆるものが橙色に染まるこの時間帯にあって決して染まらぬ白と黒の鍵盤が、なめらかに沈み込む度に鼓膜を心地よく震わせる。
この軽やかな舞曲は、回りながら踊る人々の姿を幻視させた。練習曲と名がついているが、徐々にテンポを上げていくところやスタッカートの有無の表現力など、意識するところが案外多く、傍目にはとても難しそうに見える。
やがて最後の一音を奏で終え、音楽室内に静寂が戻った。
薄く開かれていた窓から吹き込む風が、白いカーテンをふわりと舞い上がらせる。此処で漸く、遠く外のグラウンドから練習試合に訪れている運動部員たちのかけ声が聞こえ、廊下からは利用者たちの足音や雑談の声が聞こえ始めた。微かに町内放送のサイレンが流れ、高校生の帰宅時間につき運転には注意するようにとのアナウンスが反響を伴って響いた。
ピアノと自分たちだけだった世界に、外の気配が混じる。
顔を上げた金髪の少年と、間近で目が合う。
「ありがとう、
「そらどーも」
凛音と呼ばれた金髪の少年は、ぶっきらぼうに答えながら目を逸らした。
「
「うん。君のお陰で落ち着いたよ」
それにしても、と、朔斗と呼ばれた黒髪の少年が呟く。
「僕の調律曲はタランテラなんだね」
「……まあな」
「どうして?……あ、曲に不満があるとかじゃなくて……純粋な疑問で」
凛音は暫くじっと朔斗を睨むように見つめていたが、其処に他意がないとわかると溜息を一つ吐いた。
「お前に……初めて聴かせた曲だから」
そう言われて、朔斗は「そっか」と微笑んだ。
思いの外可愛らしい理由に、頬が緩む。初めて聴かせた曲を、二人の思い出の曲として選んだという事実に、胸がじわりと熱くなるのを感じた。
「俺にとっては、
「うん。……そう出来たなら良かった」
凛音の母は、自分がライバル意識している相手を見返すための道具として、凛音にピアノを強要していた。ピアノ自体は好きだったが、母が強いてくる練習のノルマやコンクールへの参加などは心底嫌っていた。母がライバルとしている相手が、凛音と母を全く意識していないことも虚しさを加速させた。
ただ心のままに弾くことが出来たら。そう願っても、母は許さなかった。勝てないピアノに価値などなかった。楽しむ必要などない。見返すことが出来ないならなんの価値も意味もない。凛音は生まれてからずっと役立たずの道具だった。
朔斗と出会うまで、ピアノはただの苦痛の筵だったのに。
『綺麗な音だね。僕、その曲好きだな』
市民会館に併設された音楽室を借りて練習していたとき、いつの間にか室内にいた朔斗が放った言葉。
弾いていたのは他愛のない練習曲で、軽い指ならしのつもりだった。けれど朔斗はもの凄い技術を目の当たりにしたかのように感動して、凛音を褒めた。
最初は馬鹿にされているのだと思った。ピアノをやってきて褒められたことなんてなかったから。だが、朔斗が本心から褒めているとわかると、凛音は音楽室で練習をするときだけは朔斗のためだけに弾いた。
このとき初めて、凛音は心から音を楽しむことが出来た。自分の奏でる音が誰かに届く喜びを知った。コンクールの舞台で万人に送られるお愛想の拍手なんかよりも、ずっとずっと朔斗の「好き」の二文字が心に響いた。
音楽という言葉がどういう字を書くものか、朔斗のお陰で思い出せたのだ。
「なんか聴きたい曲あるか? もう一曲くらいなら弾けると思うけど」
音楽室の利用時間は、基本的に一組一時間と決まっている。
壁掛け時計を見上げれば、確かにあと一曲弾いたら退室の時間になりそうだ。
「じゃあ、月光第二楽章がいいな」
「お前、ああいう曲好きだよな」
「うん。なんかね、鍵盤を跳ねるように弾く曲が好きみたい」
「わーったよ」
凛音の両手が、鍵盤の上にそっと置かれる。
なめらかでありながら弾むような指使いで、曲が奏でられる。長い指が遠い鍵盤と鍵盤を橋渡しするように広げられて、軽やかな和音を生む。
凛音は朔斗と身長こそ変わらないが、手の大きさと指の長さだけは全く違う。以前好奇心で手を合わせてもらったとき、朔斗の手は凛音の手の第一関節ほどしかなく、更に凛音は手のひらよりも指のほうが長かった。
まさしく、ピアノを弾くために作られた手だった。
「ありがとう」
弾き終わった凛音にそう言うと、凛音は「別に」とぶっきらぼうに言ってから、
「お前のためならいつだって弾いてやるし」
ピアノを片付けながら、朔斗のほうを見ずにそう続けた。
朔斗には、それだけで充分だった。トラウマになっていてもおかしくない幼少期を過ごした凛音が、母親に殴られながら寝食も奪われて泣きながら弾いた曲が、好きな曲に変わった。肉親という不変の存在を自分が塗り替えたようで誇らしかった。
だから明日も、その次も、朔斗は凛音にピアノをねだる。
彼にとってのピアノが、楽しい音であり続けるように。
君がくれた初めての音 宵宮祀花 @ambrosiaxxx
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