アラベスク
花森ちと
唐草模様
正午の光が差し込んでいる。抜け殻となった部屋に。あのひとが暮らしていた場所で。空になった香水瓶みたい。ここの住人は消えてしまった。前触れもなく。突然のことだった。
ふいに、彼女の甘ったるい香りがした。吐き気がする。罪びとが蜘蛛の糸へ縋ったように、窓を開いた。レースカーテンが靡く。春のやわらかな風が部屋を満たしていく。それでも、染みついた香りが消えることはなかった。それでも、痛いほどの後悔が、僕をとらえて離さなかった。
薫の首元には、ほくろがあった。指先で首筋をなぞると、耳のうしろにたどり着く。そのまま眠る薫の唇を撫でた。長い茶髪が痩せた頬に流れている。チークが人工的に頬を染めていた。それがどうも痛々しかった。睫毛が蝶のように揺れた。潤んだ瞳が現れる。「来てたんだ」目を覚ました薫は微笑む。ある秋のことだった。僕はマンションの隣人である薫の家へ来ていた。
「また、学校行かなかったんだね」
ベッドから起き上がった薫はまだ眠そうな声で尋ねた。皺くちゃになったスカートの裾から赤黒い痣がのぞいている。いつものソファに座った僕はうなずく。薫から合鍵が渡されていて、いつでも家に入ってよいことになっていた。
しばらくすると、台所からコーヒーの香りがした。そして卵とパンが焼ける匂いもする。もうすぐ午後二時だというのに、薫はいつもこの時間に朝食を食べるのだ。
「もうすぐ高校受験なんでしょ。しっかり学校へ行かないと、あたしみたいになっちゃうぞー」コーヒーを差し出しながら、いたずらっぽく笑う。
「それでもいいよ。少なくとも、両親と先生みたいにならなければ、僕はいいんだ」
「ふーん。ま、好きにしたらいいんじゃない」
好きにしたらいいんじゃない。気がつくと、頭のなかをそんな言葉が滔々と満たしていた。好きにしたらいいんじゃない。両親と先生のような道を逸れたところで、その先に薫はいるのだろうか。好きにしたらいいんじゃない。僕は、理想を果たすにはあまりにも青すぎる。僕は薫のような人生を薫と歩みたい。そんなこと、口が裂けても言えなかった。
ローテーブルの向かいに座った薫を見やる。彼女はマーマレード・ジャムのたっぷり塗られたトーストを持ち上げては凝視していた。ちいさな口で食べるには大きすぎるのだろう。しばらく観察していたら、薫と目が合った。「なに、あんたもトースト食べたかったの」それから半分になったトーストを手渡された。小春日和。てらてらと、ジャムがうれしそうに窓から差し込む光を反射している。思わず、僕も笑みがこぼれた。
「口があるならそう言えばいいのにね。あんたも雅也も」
雅也。薫の口から男の名が聞こえた。ふいに、甘ったるい香りがした。手渡されたトーストを急いで食べきると、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。まるで酒を呷るかのように。
あのとき、僕は早く大人になりたかった。
大人になりたくない、なんて思っている自分もいた。
大人なんて嫌いだ。彼らは彼ら自身のことで夢中になるあまり、僕のことなんて見向きもしないのだ。父さんも母さんも先生も、僕を見ているようで見ていない。まるで幽霊になった気分だ。
それでも、まだ大人を信頼していた中学二年の夏、僕は三者面談で悩みを打ち明けた。クラスで孤立していること、なにをするにも無気力なこと、そして将来のこと。勇気を振り絞って声に出したにも関わらず、その後の結果は最悪だった。彼らは僕の悩みから話題をすり替え、自身の中学生時代について話しはじめたのだ。自分語りをすることは何よりも気持ちが良い。彼らは善人ヅラをして自慰行為をしていたのだった。それから、僕は大人を信じなくなった。僕がまだ純粋で素直な少年であると、彼らは錯覚をしたまま。
すこし冷たい春の風が頬を撫でる。いつものように、ソファに腰かけていた。向かいには誰もいない。いつもだったら薫がいたのに。
ローテーブルに指輪がひとつ転がっている。真昼だというのに、一等星みたいに輝くそれが、嫌になるほど気味が悪かった。
この指輪をはじめて手に取った。手のひらのなかで、それはやっと光を失った。僕が触れると穢れてしまう、なんて今までは思っていた。だけど、僕は早くこれに触れておくべきだったのかもしれない。
「ねえ、見て。もらったの」
ある雪の降る日。うれしそうに左手の薬指を披露する薫は、僕とはちがう世界の人間みたいな微笑みをしていた。対して、僕は――僕の世界が光を失ったように――目の前が真っ暗になっていた。
「ふたりでプラネタリウムへ行ったの。となりの駅の、海沿いにあるところ。これから見るのは偽物の星だ、って高をくくっていたけれど、実際に見てみたらすごく綺麗だった。星をみた後に、イタリアンを食べたの。ワインのおいしいお店だった。デザートが来る頃になって、彼は居心地悪そうにしていたから、いつものように癇癪を起こして帰ってしまう予感がした。だけど、この指輪を渡そうとしていたのね。やっと渡されたと思ったら、デザートが運ばれてくるタイミングとすっかり同じになっちゃって、あんまりおかしいからしばらく笑っちゃった。彼のことを笑ったら、いつもは怒られちゃうのにね」
それからも、薫の表情は軽やかにまわった。笑ったと思ったら泣いていて、幸せそうにしていると思ったら憂いている。電燈の灯るメリーゴーランドのように。夏祭りに咲いた花火のように。そんな騒々しい薫に沸々とした苛立ちを感じていた。薫だけが僕の光だったのに。
「薫はこれからどうなるの」
この後に続く言葉が怖かった。
「結婚するのよ」
間髪を入れず、薫は答えた。いちばん聞きたくなかった言葉。指輪を貰ったのならあたりまえでしょう、世間知らずな僕への失望も感じてしまった。
「薫は幸せになれるの」
「自信はないけど、きっとなれるよ」
「僕はどうなってしまうの」
「きっと幸せになるよ」
薫は抱きしめた。中学生にもなって、年甲斐もなく泣き出した僕を。僕の初恋はあっけなく終わった。恋が失われていく。薫から、いつもとは違うやさしく朗らかな香りがした。まるで春の陽だまりみたいだった。
薫はあれからどうなったのだろう。あれから、僕は薫に顔向けができないでいた。薫に会ってはいけないような気がしていた。
僕は、この春から高校生になることが決まっている。本当は高校なんて行きたくなかった。しかし両親が世間体を気にしたために、無理やり通わされることになったのだ。それでも、僕には将来があるのに間違えなかった。どれだけ不本意な選択でも。どれだけ選択に不服があっても。僕は恵まれた存在だった。将来を失った薫とはちがって。
薫があれからどうなったのか。本当は気づいていた。隣の家から物音がしないこと。薫を見かけなくなったこと。そして、いつも体中につけていた赤黒い痣。
あのとき、薫を止めることができたのなら。僕の初恋は実を結んでいたのだろうか。あのとき、薫を止めることができたのなら。薫は今もこの家で暮らしていたのだろうか。
手のひらのなかで輝く指輪を見つめる。これはいつか薫が恋人と将来を誓い合うためにあったものだ。だけど、指輪はこの部屋に取り残されている。持ち主に捨てられたかのように。指輪はさびしい光をはらんでいた。指輪をなぐさめるかのように撫でていると、僕は次第に眠りへ落ちていった。春風が、レースカーテンを靡かせて、僕を抱擁するのを感じた。
はじめて薫と会った日のことを夢にみた。
中学一年の、夏が暮れる頃。鍵を忘れた僕は家の扉の前で座り込んでいた。両親が帰ってくるのは日付が変わる真夜中だ。たぶん、現在時刻はまだ十八時くらいで、真夜中までは気が遠くなるくらい時間があった。あの時、僕は熱中症寸前だったのだろう、頭は靄がかかったようにぼんやりしていた。ただ、体から滴る汗がコンクリートに跡をつけるのを見ていた。
すると、階段を上る足音が聞こえた。その音は僕に近づいた途端に止んだ。
「どうしたの」目線を上げると、顔に大きな痣のある女が僕を見下ろしていた。
「鍵を忘れました」
女は微笑む。夕暮れに赤黒い痣が照らされている。「じゃあ、うちにおいでよ。あんた、隣の家の子でしょう」
女の家の中は、香水の匂いなのだろうか、甘ったるい香りが部屋全体を満たしている。
「のど乾いたでしょう。麦茶でも飲む?」
僕はうなずく。しばらくすると、コップいっぱいに注がれた麦茶が手渡された。
「その顔、どうしたんですか」
「彼氏に殴られたの」
女は弱々しく微笑むと、テレビの電源をつけた。途端に夕方の報道番組が流れる。アナウンサーは遠く離れた街で少女が殺されたニュースを淡々と語る。
「あたしはこれからどうなるんだろう」
あたしはこれからどうなるんだろう。あのとき、たしかに薫は弱々しく呟いていた。数年経って、あの時と同じ場所でその言葉を反芻していた。まるで後悔をするように。まるで故人を悼むように。
アラベスク 花森ちと @kukka_woods
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