赤い光

あけち

赤い光

 灰色の猛吹雪の中、エヌ氏は走っていた。頼りないダウンコートのフードを右手で抑え、なんとか自分のコテージへ辿り着く。フードを脱ぐついでに、雪を払った。


 ほぉうと白い息を吐き、革手袋をした右手でドアノブを回した。


 エヌ氏の目の前には、赤スーツの見知らぬ女が立っていた。床を見下ろしている。


「誰だっ、貴様っ!」同じく視線を下げると、女の手には小拳銃があった。くわえて厚手のトレンチコートを身に纏う男が床に転がり、斧が頭に深く突き刺さっている。


 エヌ氏は状況の異常さを把握し、咄嗟に身を翻した。


「動かないでっ」エヌ氏はその台詞から自分の背中へ銃口が向けられたのだと悟った。

「このことは忘れる。猛吹雪だからコテージを間違えたんだ」

「いえ、ここはあなたのコテージよ。ほら、置き時計の隣に、微笑むあなたの写真がある」

「たしかに俺だ。では、ここで何をしてる。まさか映画の撮影じゃあるまい」

「映画だったらなに? ……メロドラマ?」


 ふざけたことを抜かす女だ。だがこの女の声音が所々詰まっている。動揺しているのだろうか……。


「近くにコテージや別荘もないわ。ここから出れば凍死よ?」

「立派なかまくらがあるかもしれない」

「ないわね。この地帯の雪はさらさらよ。かまくらができる雪じゃない」エヌ氏を軸としてコンパスのように女は回り込もうとする。「じゃあ、そんなあなたは、どこへ向かおうとしたの?」

「脊髄反射というやつだろう。誰だって殺しの現場を目撃すれば、身を引き返す」


 女は拳銃を肩の水平まであげ、エヌ氏の側頭部へ狙いを定めている。


「では、話を変えるわね。あなたはどこからやって来たの? 吹雪は三時間前からよ。最寄り駅からでも歩いて二時間はかかる。でも、あなたの唇は綺麗な真っ赤よ」


「……」エヌ氏は沈黙した。


 コテージを横殴りするような雪の音が、乾いたこの空間に満ちた。


「……それはお前もだろ。三時間前からこのコテージにいたのか?」

「そう、三時間前から居たわよ」

「長居してもらえるほど良いコテージなのか。金を取れるな」

「あら、聞かないの? 人の別荘に勝手に入ったこの私の正体を」

「……女は毎秒気が変わるってな、どうせ教えてくれない。予習済みだ」

「悲しいメロドラマを聞くのはまた今度ね。今まであなたが会ってきた女とは違って答えてあげる。私は、警察よ」


 エヌ氏は眉を顰めた。

 警察という言葉以上に、その言葉を発したこの女が落ち着き始めたことに苛立つ。


「あら、さっきまでの威勢はどうしたの?」

「警察が俺の別荘になんだ? 迷子か? 百十番してやるよ」


 女のありきたりな挑発に乗ってしまった、とエヌ氏は言ってから後悔する。

 小さく息を吐く。白い息を見送ることなく、近くの紅いソファーへと腰掛けた。


「あなたがここから飛び出すまで何をしていたか……私、知ってるわよ」

「……聞いていたのか」

「そう、聞いていたわ。屋根裏に忍び込んで、耳を張り付けてね」


 今になってエヌ氏は、銃を突きつけられたのは何度目だろうと思った。寝る前の羊のように数えてはいなかったが、その数は両手両足では収まらないだろう。


「じゃあ、知ってるだろ? 俺は正当防衛だってな」

「口論になって斧を持ち出すのは、正当防衛の立証としては難しいわね。相手は何も武器を持っていなかったようだけれど」倒れた男の手には何も握られていない。


「待て、前提がオカシイ」エヌ氏は右手を突き出す。「相手はこのコテージに勝手に入って来たんだ。強盗だったんだよ」床に倒れた男を蔑むような目つきでエヌ氏は見やった。


「ほんとにそうかしら? 私には道に迷ったように聞こえたけれど」

「アホか。奴は急に俺の胸ぐらを掴んできたんだ」警察と名乗るこの女は本当に話を聞いていたのか? エヌ氏が目を細めると、女は目線を横に逸らした。


「話を変えるが、警察であるお前は俺たちが取っ組み合あっている際も出てこなかった。お前、本当に警察か?」


 警察であれば、チャリに乗ったガキみたいに急に飛び出して来る筈だ。


「……えぇそうよ」女はポケットから警察手帳をチラッとみせた。


「取っ組み合いを傍観する警察がいるとは驚いた」大袈裟に両手を広げたエヌ氏は、微笑んだ。__ソファーを勢いよく右手で押した。倒れる男まで近寄り、膨らんでいた筈の胸ポケットを触る。


「無いな」中身が空になっている。

「動かないでっ!」

「あんた、この男から警察手帳を奪っただろ?」


 エヌ氏の後頭部に拳銃が押し当てられる。


「…………次は無いわよ」冷えた銃口よりも女のヒステリーな声の方が心臓に悪かった。

 やはり、女はコロコロ変わる、とエヌ氏は思った。


「そう、この男から盗んだわ。まさか殺した相手が警察だったとは、って、あなたびっくりしたんじゃない?」

「そうだな。お前みたいに、警察だ、って名乗るべきだったよ、こいつは」


 女は顎を上向け、ふふっと笑った。


「幾ら、連続殺人を犯した計画的な男も、衝動的に殺さざるを得なかったようね」

「……お前、どこまで知ってる?」エヌ氏は背筋に虫を敷き詰められたような気持ち悪さを感じつつ、両手を上げた。


「それを答える前に、屋根裏に来てもらうわ」

 女が階段の方へと銃先を二度軽く向けるので、エヌ氏は従った。


「あの警官は私の指揮を破ったのよ。台本通りだったら、死なずに済んだでしょうに」


 台本。エヌ氏はその言葉を何度か反芻させ、この女が最初にビクついていたのは演技なのだなと悟る。名演技だ。みんな、拍手。


「最初は道に迷った風を装うって言ったのに、あなたの様子じゃ、いきなり掴んだようね」

「やはり、屋根裏では俺たちの声は聞こえなかったのか」

「やっと気づいたの? 吹雪の音で掻き消されて聞こえなかったわよ。あなたが彼の息の根を止めた音もね」


 雪で濡れた靴だからエヌ氏は階段を転けそうになった。右の取手を掴み、上っていく。


「掴んできた時は、相撲大会が始まったのかと思ったさ」

「彼は私と同じ演劇部よ。相撲部だったら幾らかマシな結果になったでしょうに。私に良い格好しようと思ったのね。つくづく冴えない男だったわ」


 階段を上りきり、屋根裏に通じる天井のドアを押し開く。

 中には外の景色を眺められる窓があり、近くには直立型の双眼鏡があった。

 背中に細長い棒を押し当てられ、エヌ氏は屋根裏へと入った。女も続く。


「あなたこの双眼鏡を覗き込んで、毎日、びくびくしてたのでしょ。警察捕まえに来ないかなって。想像するだけで、可笑しいわね」鼻で笑う女は次第に悪女のように笑い始めた。


「…………」


「あぁその顔いいわ。最高だわ。国から排除を命じられ、二年間逃亡した男の動揺。あなたあの男よりもきっと名優になれるわ。勿論、連続殺人鬼役しか出られないけど……ぷっ」


 女のニヤけた口元と冷笑な瞳に胸が張り裂けそうになった。まるで、石の下で平穏に過ごしていた虫が人間の手で石を持ち上げられ、太陽に晒されたようだった。


 エヌ氏の左腕に衝撃が走った。硝煙の匂いと共に、二の腕から血が吹き出た。スケートで転けたみたいに体が回転し、エヌ氏は尻餅をついた。


 痛みを堪えながら睨んでくるエヌ氏に女は口角をあげた。


「見てるだけで興奮するわ、あなたの表情。あぁいい。ねぇ、きいてきいて」子供のようだった。「あのね、あの連続殺人、あなたがやっていないの、私、知ってるよ」


 エヌ氏は目を見開いた。


「だって、私だもんっ! 私があなたに罪を被せたんだもん! あはははははははははははははははははははははははははははっはははっっ、おかしいっはははっははははははは」


 狂ったように女は顔を上向けながら笑う。左手で顔を覆っている。


 エヌ氏の脳裏にあの地獄のような日々が浮かび上がった。


 泥のような川に身を潜め、下水道で二晩も、三晩も夜を超え、遠くから警察に何度も銃口を向けられるも、なんとか切り抜け、悪夢に魘された日々の記憶だった。


 ぐっ、と歯を噛み締め、野生動物のように唸り、立ちあがろうとするも、眼前に拳銃を突きつけられた。「バン__なんてね」利き手である右手は出血し力が抜け、使い物にならない。また、左手はこの二年間で負傷し、病院に行けず壊死していた。


「犬みたいでかわいいっ」女はエヌ氏の腹を押すように蹴った。

 背が地べたにつくも、エヌ氏は顔を下げなかった。


「ねぇ、あなたも知ってるでしょ?」

 女は、屋根裏部屋に置かれたノートパソコンを指差した。このコテージは圏外であるが、時折エヌ氏は電波がつながる所まで降り、パソコンを触ることがあった。


「あの、あなたが犯人とされた連続殺人が今ネットでは、真犯人説なんてクダラナイ考察がされてるの。『犯人は他にいる』『複数犯だ』『真犯人は近くにいる』って、なんでこうなったんだろうね。ほんとありえない。ほんとウザっ!」女は近くにあった段ボールをペシャンコになるまで蹴り続けた。


「ふぅ、でね、私、焦ったの。心配性なの、こう見えて。台本作るぐらいね。で、思ったの。あぁそうかって。あの偽犯人に犯行を自供させた遺書を書かせればいいんだってね」


 エヌ氏の呼吸は荒れ、自身が気づかないうちに口呼吸をしていた。


「机の上の紙に『私がやりました』って遺書を書いてよ。右腕を撃たれても書けるでしょ?」

「……自殺する前に弾丸で右腕を打ち抜かれた男が本当に自殺したなんて誰が信じるんだよ。バカかお前は」

「あらっ、元気になったわね。でも安心して、もう台本は作ってあるから。面白い台本なの。腕をピストルで撃ち抜かれても誰もが自殺だと思っちゃうの。気になる?」


 エヌ氏は黙った。これ以上、悪魔のように目と口が釣り上がったこの女と話していると、気が狂いそうだったからだ。


 ピストルを気だるそうに女はぶらぶら揺らしている。エヌ氏は力を振り絞り、身を起こし、机の長辺に体を預けた。血を垂らしながら、なんとかペンを握る。


「はやく、はやく」ピストルをズボンで叩く音がした。「『先立つ不幸を』ってのは、やめてね。面白く無いから」

「……一」

「ん? なんか言った?」

「……二、…………三」

「なにそれ。気持ち悪いんだけど、やめてそれ」

「四、…………五」


 女はエヌ氏に近寄り、左手で肩を握り、顔を見た。エヌ氏の顔は女を見ていない。目だけが窓の奥で吹き続ける雪を見つめていた。その瞳孔に微かな希望が潜んでいるのを女は察知した。女は見つめる。何か、遠くに。目を凝らした。雪が止んでいく。その先に、赤い光があった。それはコテージを照らすライトにぶら下がったカメラだった。カメラが女の姿を見つめていた。


「はっ……は、なに、なにっ!」女は気が動転し、後退りしていく。足元にあった何かに、ぶつかり、転げた。それは__小型カメラだった。


「なによ、これっ!」女は左手でそれを掴み、壁へ叩きつけた。


 それに追い打ちをかけるように、エヌ氏は呟く。


「十……ふぅ、録画終了」


 エヌ氏はよろよろと立ち上がる。十歳ぐらい老け込んだ気がする女は右手で拳銃を向けるも、エヌ氏が蹴った。拳銃はゴミ箱の中へと入る。サッと、カーテンで窓を隠した。


「ありがとう。これでお前が真犯人だと言う証拠は揃ったぜ」

 女の双眸が忙しなく縦横無尽に動く。何が起きたのか、何が起きているのかを、女はまだ理解できずにいるのだなとエヌ氏は理解した。


「俺自身、誰が真犯人かを何度も考えた。しかしな、真犯人は分からずじまい、それに俺は現場に戻ることはできないから物的証拠を探ることもできなかった」


「……なっ、なにを言ってるの」女は股関節をガクガクと震わせ、吸血鬼にでも血を吸われたのかと思えるほど顔の血色が薄くなっていく。


「そこで俺は考えた。であれば、その真犯人を誘き出そうって。そのために、パソコンを使い、ネット上であの事件の考察サイトを立ち上げた。命を削ってサイトを盛り上げたさ」


 エヌ氏にとって一か八かだった。警察がこのサイトを通じ、自分の場所を特定するのではと。


 だが、天はエヌ氏に味方した。


 女は焦った末、警察だったあの男にサイト閲覧者を調べさせた。きっとエヌ氏はこのサイトを見ている筈だと。その結果、エヌ氏の居場所を特定することができた。


 しかし、女は大きな見落としをした。エヌ氏がサイトを運営している側という可能性を。


「ふざけないでっ、カメラで私を撮ってたっての? ずるいわよっ__くっ」女が立ちあがろうとするも、エヌ氏は胸の辺りを蹴った。そして、女に跨る。


「ずるいだっ? ふざけんなっ! お前のせいで俺の家族は散り散りになったんだ! 職を失ったんだ! あったはずの未来が無くなったんだ!」

 エヌ氏は女の耳元で叫んだ。


 女は瞬きもできずに全身を震わせていた。


「もうすぐ、救助のヘリがくる。ここは圏外だからな、さっき外まで行って、携帯で呼んださ。『殺人鬼が自白しました。真犯人が俺を襲ってきた』ってな」


 真犯人である女の小鳥のように小さくなった脳が動く。この男があの警察を殺した後に外へ出たのは、電波のつながる場所に行き、携帯で救助を呼ぶためだったのだと。


 そう理解した時、女は現実に引き戻された。当然のように女はエヌ氏の首を両手で絞めようとするも、エヌ氏は血まみれの右腕で払った。


 女は萎れた茎のようになった。その目元から、涙が溢れた。


「ごめんなさい、許して……なんでもするから……」


 女は泣きながら懇願する。ブラウスがはだけ、滑らかな肌がちらりと覗いた。


 あぁ、卑しい女だ。そうエヌ氏は思う。やっぱり、女ってのはコロコロ変わる。


 エヌ氏は立ち上がり、次々に屋根裏に忍ばせた他のカメラをストップさせる。無論、一階にもあるが、それは後でも構わない。全部のカメラをストップさせ、女を見下ろす。


「あの男はお前が殺した。仲間内での殺しだ」

「ちがっ、ちがうっ」

「だれが信じてくれるっ?」エヌ氏は泣き叫ぶ女の頬を右手で掴んだ。「もう映像も録音も止まった。編集も俺がすぐにやる。お前は俺を犯人として祭りあげ、俺を殺そうとした。そして仲間も殺した、殺人鬼だ」


 エヌ氏は足の裏から立ち昇ってくるような高揚感を感じた。


「どうだ? 罪を被せられた気分は?」

 エヌ氏は顔を上げ、血まみれの右手で顔を覆い、笑った。



 女の胸の内にもまた、光があった。

 しかしそれを、表には出さない。その自信があった。

 なぜなら彼女はまだ、舞台の上にいるのだから。



 二人が去った後、屋根裏の天井の間から赤い光が瞬いていた。

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赤い光 あけち @aketi4869

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