十年分のひだまり
エレイル
十年分のひだまり
「好きです」
そのたった一言が、どうしても言えなかった。
高校一年生の春、隣の席になった君――高橋海斗(たかはし かいと)くん。教科書を忘れた私に、黙って半分ずらして見せてくれた。ぶっきらぼうに見えて、その横顔に射す西日がやけに優しくて、私は一瞬で恋に落ちた。
それから十年。
私は、日向葵(ひなた あおい)。27歳。都内の小さな出版社で編集者として働いている。
海斗くんとは、高校卒業以来、一度も会っていない。風の噂で、彼が地元の市役所に就職したことは知っていたけれど、連絡先も知らないままだった。
SNSで彼の名前を検索しては、同姓同名の無関係なアカウントを眺めてため息をつく。そんな日々が、私の日常だった。彼への想いは、まるで古い写真のように色褪せることなく、心の奥底で静かに息づいていた。
「葵、今度の同窓会、来るよね?」
ある日、高校時代の友人、美咲から連絡があった。卒業以来、初めての学年全体の同窓会だという。
胸が高鳴った。もしかしたら、彼に会えるかもしれない。
当日、少しお洒落をして会場に向かった。懐かしい顔ぶれに心が和む。けれど、私の目は無意識に彼を探していた。
「あ、葵じゃん!久しぶり!」
声のした方を見ると、そこには少し大人びた海斗くんが立っていた。昔と変わらない、少し困ったような優しい笑顔。心臓が、ドクン、と大きく鳴った。
「…海斗くん、久しぶり」
声が震えないように、必死に平静を装う。
「元気だった?葵、なんか雰囲気変わったな。綺麗になった」
「そ、そうかな?ありがとう…」
顔が熱くなるのを感じる。単純な言葉が、十年分の片思いにはあまりにも甘美だった。
私たちは、ぎこちなく言葉を交わした。彼の今の仕事のこと、趣味のこと。私の知らない彼の十年が、少しだけ垣間見える。その一つ一つが、私には宝物のように感じられた。
二次会の誘いを断って、私は会場を後にしようとした。これ以上一緒にいたら、きっと十年分の想いが溢れ出してしまいそうだったから。
「葵」
呼び止められて振り返ると、海斗くんが追いかけてきていた。
「あのさ、よかったら、連絡先交換しない?」
彼の少し照れたような表情に、私の心は大きく揺れた。
「…うん」
それから、私たちは時々連絡を取り合うようになった。最初はぎこちなかったメッセージも、次第に自然な会話になっていく。彼とのやり取りは、まるで乾いた心に染み渡る水のように、私を満たしていった。
ある週末、彼から「今度、二人で食事でもどう?」と誘われた。
信じられなかった。これは夢だろうか。十年分の片思いが、今、実を結ぼうとしているのかもしれない。
食事の日、私は少し緊張しながら彼を待った。
現れた彼は、いつもより少しお洒落をしていた。
「ごめん、待った?」
「ううん、私も今来たとこ」
嘘だ。一時間も前から、ここでそわそわしていた。
食事中の会話は、驚くほど弾んだ。高校時代の思い出話から、今の仕事の愚痴まで。彼といると、時間が経つのがあっという間だった。
帰り道、公園のベンチで少しだけ休憩することにした。夜風が心地よい。
「葵ってさ、高校の時、俺のこと避けてなかった?」
突然の彼の言葉に、ドキリとする。
「え?そ、そんなことないよ」
「そうかな。俺、結構葵のこと見てたんだけど、いつも目が合うと逸らされてた気がして」
まさか。彼が私を見ていたなんて。
「…それは」
「もしかして、俺、嫌われてた?」
少し寂しそうに笑う彼を見て、私はもう限界だった。
「違うの!」
思わず大きな声が出た。
「嫌ってたんじゃなくて…その、逆で…」
言葉が詰まる。十年分の想いが、喉元まで出かかっている。
「…私、高校生の時から、ずっと海斗くんのことが、好きだったの」
俯いて、絞り出すように言った。もう、どうなってもいい。
沈黙が流れる。数秒が、永遠のように感じられた。
やがて、彼が口を開いた。
「…そっか」
顔を上げると、彼は驚いたような、でもどこか嬉しそうな、複雑な表情をしていた。
「俺もさ、実は葵のこと、気になってたんだ」
「え…?」
「隣の席になった時、教科書見せてあげたら、すげー顔赤くしてて。それが可愛くて、ずっと目で追ってた。でも、なんかいつも避けられてる気がして、自信なくてさ…声かけられなかったんだ」
嘘みたいだ。彼も、私を?
「卒業してから、ずっと後悔してた。なんであの時、もっとちゃんと話しとかかなかったんだろうって」
彼の瞳が、まっすぐに私を見つめている。
「葵、遅くなったけど、俺と、付き合ってくれませんか?」
涙が溢れて止まらなかった。
十年分の片思い。報われないと諦めていた想い。
でも、それは私だけのものじゃなかったのかもしれない。
「…はい」
頷くのが精一杯だった。
彼の大きな手が、そっと私の手を握る。
あの頃、教室の窓から差し込んでいた西日と同じくらい、温かくて優しい手だった。
十年分の片思いは、今日、終わりを告げた。
そして、新しい物語が始まる。
彼の隣で、葵の心には、ようやく訪れた春の日差しのような、優しい温もりが静かに広がっていった。
十年分のひだまり エレイル @nowacchi_01
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