二章 櫛姫伝説③

「ねぇねは、なんで、鈴蜻蛉が死んだ人の魂だって思うの?」

「言葉を喋るからね。しかも鈴蜻蛉が姿を消しているのは、単眼鳶や長手猿に食われないためなの。あいつら人を襲って食うけど、鈴蜻蛉も捕って食うのよ。単眼鳶も長手猿も人を襲うのは、魂を食うからって言われてるでしょう? そいつらが鈴蜻蛉みたいな小さな虫を好んで食べるのは、それが魂だからかな、って」

 ほぼ永遠であるはずの魂も、単眼鳶や長手猿に食われるのかもしれない。それを思えば、神奈備にむ単眼鳶と長手猿は、この世で最も強い捕食者なのかもしれない。

 しばらく何か考えるように黙った千千木だったが、ぽつりと問う。

「じゃあ、ねぇね。ととと、かかは、鈴蜻蛉になってるの?」

「なってたら会いに来てくれるって、ずっと期待してたけど……会ったことない」

 鈴蜻蛉の声は断片的で、意味がとりづらいことも多い。それでも両親が鈴蜻蛉となって近くにやってきたら、必ず十十木に話しかけてくれるはずだ。

 神奈備から戻り、全ての記憶がなくなっていた十十木にとって、両親は見知らぬ夫婦だった。彼らが何をするつもりかと、常に不安だった。

 よそよそしく、おびえた様子の彼女に、両親はいつも笑顔で接してくれた。

 髪をとかしてやろうとした母の手を、びっくりして思わず引っぱたいてしまっても、母は「ああ、ごめん。おどかしたね」と笑ってくれた。

 不安がこうじて夜眠れずに、家の庭にうずくまっていた十十木を、父は自分も庭に出て、少し離れたところに腰掛けて見守ってくれた。草の茎をみながら、時に、「これ、嚙むか? 甘いぞ」と差し出した。受け取ると、また距離をとって座る。「星がきれいだな」「虫が鳴きだしたな」と、ぽつりぽつりと喋る。

 十十木は二人の娘だったが、神奈備から戻った直後はそう思えなかった。けれど両親が辛抱強く、優しく包むようにしてくれたので、再び彼らの娘になれたのだ。

 とととかかに、会いたい。鈴蜻蛉になっていても、会いたい。切実な思いだった。

 しかし一度も、鈴蜻蛉から両親らしき声を聞いたことはない。彼らが鈴蜻蛉として現れないのは、十十木に会う前に、単眼鳶や長手猿に食われたのかもしれなかった。

 食われた魂はどうなるのか。十十木には、そこまでわからない。

「ねぇねが、ちゃんとしてるから。ととも、かかも、安心なんだね。きっと」

 千千木が微笑む。

(この子は優しくてさとい。昔から)

 幼い頃から千千木は、十十木のそでつかんで、いつでもどこでも一緒に行きたがった。

 ねぇねと川遊びに行くのだと、熱を出した真っ赤な顔で言い張ったことがある。しかし両親に諭され、涙目で横になった。「行ってらっしゃい。めだか、うんと、とってきて」と、無理に笑って十十木を送り出すのがいじらしかった。だから一日かけて、おけいっぱいにめだかをとって戻った。千千木は喜んだが、すぐに「放してあげて」と言い出した。桶の中にいては、死んじゃうから、と。

「帰り者」と、十十木が村の子どもに石を投げられた時は、千千木が小石を投げ返そうとした。けんになるのを恐れた十十木は慌てて止めたが、憤ってくれる弟がいとしかった。石をぶつけられた十十木よりも、千千木の方が痛そうな顔をして泣いた。

 両親は石を投げられると、石を投げた子の家へ出向き、静かに話をした。たいがいどこの家でも鼻白み、早く帰れと言われていたようだが。それでも石を投げられるたびに、両親は話をしに出かけた。

 両親は小さな畑を借りて耕していたので、裕福ではなかった。

 けれど親子四人幸せだった。

 しかし──両親は、もういない。

 十十木に残されたのは、千千木だけだ。両親がいなくなって五年、今の十十木にとっては弟が幸福の全てだった。

(千千木だけは幸せにしたい)

 なにも覚えていない自分を、ちゃんと家族の一人にしてくれた、両親と弟が大好きだった。家族が、十十木の幸福そのものだった。

 両親はいなくなって、幸福の形は壊れてしまった。だが弟は残ってくれた。だからせめて弟だけは幸せにしたい。

「千千木。わたしはね、噓をついた。ごめんね」

 磐境を再び跳び越え、千千木の前に戻ってくると、手からざるを取りあげ足元に置く。腰をかがめて視線を合わせた。

 不安げにひとみを揺らした千千木をのぞきこみながら、告げた。

「昨日、千千木にかれたとき『ずっと、どこへも行かない』って答えたけど。あれ、噓なの。これ、見て」

 りようそでをまくり、ひじの内側に広がる青い筋をさらす。

 皮膚の柔らかな場所に広がる青い筋。千千木は初めて見ただろうが、姉の肌にあるものが、寝物語に聞かされた怖い病だとわかるはずだ。

 目が大きく見開かれ、千千木の呼吸はわずかに浅く速くなる。

「ごめんね。隠してたけど、わたしいとの病なの。あと一年、長くても二年はもたない。ずっとどこへも行かないって言ったけど、無理なの。千千木を一人にしちゃう」

「……ねぇね……やだ」

 千千木の声が震える。

「病気になっちゃって、ごめん」

「やだ……やだ……ねぇね!」

 首に、千千木がすがりついてきた。その背を抱いてやり、なだめるようにたたく。弟の驚きと哀しみを受け止めながら、自分もやるせない。

 死ねない、死にたくないと、温かな小さな体から流れ込むなにかによって、強く思う。

「どうしようもないの。ごめんね。でもね、病が治る方法があるかもしれない」

「治るの!?」

 顔をあげた千千木の、涙でれた頰に手を当て、やわらかな感触に口元をゆるめた。

「昨日、神奈備へ行きたいっていう人たちが来たでしょう。彼らは、不老不死の都を探そうとしているんだって。あの中の一人は、以前神奈備で行方知れずになって、病だった体がえて戻ってきたらしいの。きっと、不老不死の都に行ったんだろうって」

「それって櫛姫の都?」

 千千木は、きょとんとして問う。

「そうだろうって、あの人たちは考えてるみたい」

「そんなとこ……あるの?」

「あるかもしれない。もしあれば、わたしは生きられる。絶対に確かだって言えない。けれど彼らと行きたい。しばらく千千木とは離ればなれになるけど、その間、村長によく頼んでおくから。お金もたんと置いて行く」

 千千木の瞳に、さらに涙が盛りあがる。

「行くの?」

「すごく迷った。一年、二年、千千木と一緒の時を大切にするか。それとも生き延びるために、一年、二年をふいにするかもしれないけど、あの人たちと一緒に行くか。でもわたしは、絶対に来る死を待つよりも、生き延びる可能性があるなら、彼らと行きたいと思ったの。千千木はどう思う? 千千木の考えを聞きたい」

 澄んだ瞳がこちらを見つめる。

「どう? 千千木」

「……行かなきゃ、ねぇねは……死ぬ?」

「今じゃないけれど、少し先にはね、死んでしまう。だからって神奈備に行っても、帰ってこられないかもしれない。でも、元気で帰ってこられて、ずっと千千木と暮らせるかもしれない」

「……ねぇねは……ねぇね……」

「うん?」

「……っ!」

 言葉にならない声が、千千木の可愛らしい唇から漏れた。千千木は十十木の肩に顔を伏せた。

「行って……! ねぇね、行って! 行って、戻ってきて!」

 細い体を力いっぱい抱きしめて、十十木は涙をこらえて唇を嚙み、何度かうなずく。

「うん。ありがとう。行く。行って、必ず戻ってくる」

 チリチリ、チリチリと。磐境の向こうではかすかな音が続いている。


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◎この続きはただいま発売中の『久遠の禁域 神奈備物語』(角川文庫刊)にてお楽しみください。

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久遠の禁域 神奈備物語 三川みり/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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