二章 櫛姫伝説②

 翌朝。あさが終わると、十十木は千千木をともなって村はずれに向かった。

 同年代の子どもたちに比べ、千千木の首や手足は細い。肌も白く、露草色のひたたれを身につけていても、少女のようだ。それでもここ数日の不調がようやく治まったので、顔色は良くなり、歩む足取りもしっかりしている。

やぶらしの新芽、たくさんあると良いね」

 手にあるざるを、千千木はうれしげに抱えなおす。

 おかずの足しにするために、藪枯らしの新芽を採りに行こうと千千木を誘ったのだが、目的は別にあった。

 向かったのは村境に近い閑地。村の外周は共同の閑地になっており、村人は自由にまきを拾ったりきのこをとったり、山菜をとったりできる。自由とはいえ、ある程度の決まり事はあるのだが。

 閑地の南側は神奈備と接しており、いわさかが続き、神の地と人の地をわけていた。磐境は村境まで続くが、徐々に低くなり、村の領分が終わるところで途切れる。

 しいのが多かった。勢いを増した木々の葉に陽射しが遮られ、涼しい。

「藪枯らしって確か、あっちの大木の辺りにあったよね」

 明るい表情で、自分が姉より先に進もうと、千千木が数歩進んだとき。ヒューイ、ヒューイ、という甲高い鳥の声が響いた。千千木は首をすくめ、声の方向を見あげる。

「ねぇね……たんがんとびだ」

 十十木も南の空を見た。

 単眼鳶が飛んでいるのは、神奈備の上。ここからだと親指ほどの大きさにしか見えなかったが、焦げ茶色のもうきんが、空にゆったり大きく弧を描きながら飛んでいる。

 単眼鳶は一つ目の巨鳥だ。

 金に近い黄色の丸い目が、名の通り一つ。鋭いかぎ爪を備えた二本足。力強い双翼。大人の男と、顔と顔をつきあわせられるほどの大きさ。生き物をさらって食う鳥だ。単眼鳶は肉を食うだけではなく、魂を食うと信じられている。だから人の子をよくさらう。人の魂は虫や動物に比べて大きくて、食いでがあるのだと薬種刈りなどは言う。

「大丈夫。遠いよ」

 安心させるように肩をたたいてから、弟の手を握る。

「こっちにおいで、千千木」

「藪枯らしは、そっちじゃないよ。そっちは磐境の方だけど」

「いいの。見せたいものがあるから」

 十十木は千千木の手を引く。

 腰よりやや低い石垣が現れる。ごつごつとした小さな岩を重ねた磐境は、作りが粗い。磐境は三百年前に作られたのだから、これが当時の精いっぱいの技術だ。重なった岩と岩の隙間は、ぶ厚い深緑色のこけで埋まっている。所々に、枯れた羊歯しだが顔を出す。

 磐境に近づくと、千千木の腰が引けてくる。察した十十木は手を離した。

「千千木は、そこで見ておいで」

 十十木は磐境に近づくと手をついて、ひょいと跳び越えた。

「ねぇね!?」

「大丈夫。いつもこうやって越えてるんだから。平気よ」

 正面はかむだ。ひび割れたような樹皮の木々が密集している、樹海。奥へと視線を向ければ、緑が濃すぎて目にしみるほど。

 樹海の大半を占める、ひび割れた樹皮の木はという。天海大神の指から落ちたちりが、この木々になったと伝わる。厄介な木だが、奥地でなければ気にすることはない。

「ねぇ、千千木。樹海にすず蜻蛉かげろうって名の蜻蛉がいるのは、知ってる?」

「ねぇねから、昔聞いた。あれでしょう? 蜻蛉」

「そう。見えないけど、いる。今わたしの周りにも数匹飛んでる。少しだけ静かにして、耳を澄ましてごらん」

 千千木は笊を胸に抱え、素直に口をつぐむ。

 十十木も、音に集中する。

 すると──。

 チリチリ、チリチリ……チリチリ……チリ……。

 ほんのかすかな音が、自分の周囲でしているのがわかる。弱々しい音は、十十木の右手から左手側に回り込み、さらに頭上へ移る。頭上から少し離れた場所へと降りていき、地面すれすれ──おそらく草葉の上で音が途切れた。

 しかしまた、すぐにチリチリと、十十木の正面に音が浮かぶ。

「聞こえた?」

 ふり返ると、千千木は目を丸くしていた。

「うん。小さな、チリチリッていう音がした」

「見ておいで」

 ついと右手の人さし指を顔の高さにあげて、十十木は待った。

 周囲から聞こえる微かな鈴の音に似た音は、三つか四つ。その一つが、十十木のごく近くに寄ってきて、そして、人さし指の先に軽い何かが触れた。それは十十木の指に触れると、頭の先から尻尾しつぽまで、瞬き一つの間に、ぱっとその身に色をまとった。

「……あっ」

 千千木が息をむ。



 の指先には、人さし指と同じくらいの大きさのこん色の蜻蛉が止まっていた。薄青いつやつやとした半透明の羽が、木の葉の隙間から落ちてくる陽射しに照らされ、瑠璃紺、濃紺、青鈍と瑠璃と、様々な色を溶かしたような輝きを帯びる。

「鈴蜻蛉はね、いつもは姿が消えている。そこにいても見えない。けれど命のあるものに触れると、姿を現すの」

 鈴蜻蛉を脅かさないように、細く息を吐くように十十木は声を落とす。

「……きれい」

 一歩、思わずだろうが踏み出すと、草を踏む音に驚いて鈴蜻蛉が飛び立った。浮き上がった途端、姿が消えた。チリチリッと小さな音だけが響く。羽音だ。

 音の方向を千千木は目で追う。

「はじめて見た、俺。鈴蜻蛉の姿」

 鈴蜻蛉は神奈備にしかいない。しかも四季を通して飛ぶ。虫が死に絶えるはずの真冬でも、神奈備に踏み込めば、己の吐く白い息の向こうに羽音を聞くこともしばしばあった。冬の神奈備に響く鈴蜻蛉の羽音は、まるで雪が降る音のようなのだ。

「鈴蜻蛉の姿を見た村の者は、少ないと思うよ。まだ、ととと、かかが、生きていたとき、わたしがながざるが来るって、村の皆に知らせたことがあったでしょう?」

「うん」

「なんでわかったか、言ってなかったけど。鈴蜻蛉に教えてもらったんだよ、長手猿の群れが来るって」

 千千木は驚いたように、目をぱちくりさせた。

「鈴蜻蛉はね、しやべってるの。わたし以外の人には、聞こえないみたいだけど」

 神奈備から戻って、しばらく経った頃だった。両親と一緒にこの場所に来たことがある。磐境に近づいて、ぼうっと深い樹海を眺めながら、自分はあの中からどうやって戻ってきたのかと思っていると、細い細いささやきが聞こえた。

 ──来るよ、来るよ。

 と。

 断片的で、ごく小さな声で、幾つも聞こえた。磐境の向こう側で鈴蜻蛉の、鈴を鳴らすような羽音がしていた。そのうち小さな音が十十木の頭に止まった。ぱっと瑠璃紺色の姿を現した鈴蜻蛉は、囁いたのだ。

 ──長手猿が、来る。群れで来る。

 両親には、鈴蜻蛉の声は聞こえなかったようだ。

 今まで十十木は、神奈備に消えた者を三人見つけ出したが、それも鈴蜻蛉の声を頼りにしたのだ。人がいる、人がいる、という小さな虫たちの囁きを頼りに。そうでなければ広い神奈備で、人を捜し出すなどできはしない。

「死んだ人の魂は、神奈備へ行くって言われてるでしょう? 鈴蜻蛉は、死んだ人の魂かもしれないって思うの」

 生き物にはこんぱくというものがあり、魂魄そろって生き物と成っている。

 魂は生き物の心。

 魄は生き物の体を保つ力。

 魂と魄がり合わさって、命となっている。

 生き物は死ぬと、魂と魄が分かれる。魄は体にとどまり続けるが、魂を失ったのでいずれ弱り消える。生き物が死ぬと腐るのは魄が消えるからだ。逆に言えば、魄さえ消えなければ、体は腐らない。ただ魂を失った魄は、長くはもたない。

 魄は生き物を生かす力はあるが、それゆえに肉体から出られず、肉体とともにあるからこそぜいじやく

 一方の魂は体から飛び出し、生き物すべての母たる天海大神のもと、神奈備へと飛ぶ。自在になった魂は強い。ほぼ永遠に在り続ける。

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