二章 櫛姫伝説①
一
(百年以上前の生まれ? まさか)
どう見ても阿嶽は二十代半ば、せいぜい三十代だ。
突拍子もない話だったが、逆に、どんなふうに噓をつき通そうとするか興味がわいた。戸から手を離してふり向く。
青白い月明かりのもとで、阿嶽は
「わたしは百年前に、都の日生で植物を研究していた学者でした。
自分が貴草の利用を広めたとは、大きく出たものだと逆に感心した。
「最初は、自分でも信じられませんでした。でも自分の
また妙なことを阿嶽が口にしたので、十十木は顔をしかめた。
「信じられないって。自分がいくら生きているかなんて、自分でわかるでしょう」
弱々しく、阿嶽は首を横にふる。
「覚えていないのです、わたしは。記憶をなくしているんです」
(記憶?)
どきりとしたのは、自分も同様に過去の記憶をなくしているからだ。
「それは、昔のことを全部忘れてしまったってことですか?」
「いえ。幼い頃のことも、草学者として日生で暮らしていたことも、よく覚えています。ただわたしは、あるとき、神奈備へ草を探しに入って……そこで行方知れずになったようなのです。神奈備にわけいったことは、覚えているんです。周囲の者には危ないと止められましたが、奥深くに入るつもりはなかったのです。半日ほどで、すぐに神奈備から出てくるつもりでした。だから大丈夫だろうと、たかをくくって」
阿嶽はわずかに苦い顔をする。
「でも、わけいったところから記憶がないんです」
神奈備、記憶──。
自分の身の上と重なる言葉に、十十木は息を
「そして半年前のことです。どういったわけか、ある町の中で、ふっと正気づいたのです。わたしは、神奈備へと踏み込んだはずなのに。その町がどこなのかわからず、なぜ自分がそこにいるのかもわからず、
月の表面を雲が流れ、すうっと周囲が暗くなるが、それはわずかの間。再び阿嶽と十十木の足もとには、影が落ちる。
「さらにわたしが知っている
瞬きもできずに、十十木は阿嶽を見つめた。
(似ている)
神奈備で行方知れずになり、戻ってきたこと。
さらには一部、あるいは全ての記憶の喪失。
「あなたは自分が、百年前の草学者だと言う。けれどあなたは、自分でそう言ってるだけかもしれない。そう思い込んでいるだけかもしれない」
噓や思い込みの可能性を考え、十十木はさらに用心深く問う。
「さっきも言いました。手蹟です。わたし自身も、自分が
阿嶽は恥ずかしそうに
「ひどいくせ字なんです、わたし。それでわたしが百年前の草学者とわかって、日生では少し騒ぎになりました」
神奈備は、神のいます地だ。生き物の魂が死して戻り、常ならぬ生き物たちがいる、不可思議の樹海。
奥深くにわけいってしまった人の身に何が起こるのか、誰もわからない。
十十木しかり、阿嶽しかり──。
阿嶽は自分の胸に手を当てた。
「不思議なのは、こうして百年経って戻ったわたしは、年をとっていなかったこと。さらに胸の病が
「病?」
「わたしは胸の病で、ひどく
胸の病というは、
「それが今、わたしの体はすっかり健康なんです。病が癒えているんです」
無意識に十十木は、
いったん言葉を切り、阿嶽は戸惑うように続けて口にする。
「百年、年を取っていない。病に冒されていたはずの体も、治っている。ということは不老不死……になっているのだと思います。わたしは」
不老不死と聞いて、十十木の頭に浮かんだのは一つの伝説だった。
「……
つい口にすると、阿嶽は
「そうです。櫛姫の都が、実在するかもしれない。わたしは、そこに行ったのかもしれない」
幼い頃からの記憶を失った十十木だったが、両親は彼女が村で生きていくために、こつこつと辛抱強く、村の習わしや最低限の知識など教え直してくれた。
夜は横になった両親の間で
それで知った御伽噺の一つが、櫛姫の伝説だった。
かつて緒島は、
それが五百年前、三人の家臣の反乱で滅亡した。
三人の家臣は国主一族を殺し、それぞれに領地を得て、山鹿国、小波国、草井国の三つの国に緒島をわけて支配することとなった。
山鹿国、小波国、草井国の初代国主の名はそれぞれ、
緒島国滅亡は史実だが、そこにひとつ伝説が生まれている。
緒島国国主の一粒種であった姫が古代の呪法を全て受け継ぎ、三人の反逆者の手を逃れ、数人の
姫の名は、櫛。
櫛姫は逃亡し、
今でも櫛姫は生きていて、さらに神奈備のどこかに、姫のつくった不老不死の都があると──。
「そんな
「じゃあ、わたしはどうして、こんなことになっているのでしょうか?」
答えられずにいると、阿嶽は続ける。
「日生の人々は、様々な証拠から、わたしが不老不死になったのは間違いないと言っていました。それが国主様の耳に入り、国庁の役人から、人心を惑わす者として厳しく調べられました。そして結果……国主様は、神奈備に櫛姫の都があるに違いないと、結論づけられた」
阿嶽は懐を探り、染めが鮮やかな絹の
「わたしが、日生で正気を取り戻したときに持っていたものです。ご覧ください」
端布には、紋様が染められている。二重円のなかに描かれた、太めの下弦の月。月の周囲には潮目の渦が散らされている紋様。家紋だ。
「滅亡した緒島国の国主の家紋です。下弦の月は緒島の形からとられたもの。この家紋が染められた布を、わたしは神奈備で手に入れたようなのです」
かつて櫛姫が樹海に逃れたのだから、緒島国の家紋がついた遺物があっても不思議ではない。櫛姫が神奈備に逃亡した史実を、裏付ける証拠でしかないはず。
しかし。
ほつれのなさや、染めが
神奈備には緒島国の家紋を使う者が、
十十木は
もし、と思う。
もし櫛姫の都に行けたなら、生き続けられるかもしれない。阿嶽は都に戻るまでに百年の時がかかっているが、もっと早く戻ってこられる可能性もあるだろう。
「わたしたちは神奈備へ、櫛姫の都を探しに行くつもりなんです。櫛姫の都は、必ずある。お願いです。どうか、一緒に行ってくれませんか?」
ぴりっと緊張が走るような、真剣な阿嶽の視線。
「同行すればあなたの懐には、一勾金が入る。しかも櫛姫の都を見つけ、不老不死の身になれたなら、弟さんをずっと見守っていられるんですよ。わたしたちと同行するのは、あなたにとって悪いことじゃないと思うんです」
十十木の病を、阿嶽は知らないはず。彼は十十木が弟を可愛がっていると知り、動機づけに利用しようとしているだけ。しかし阿嶽の
「なぜあなたたちは、櫛姫の都を探してるんですか」
櫛姫の都を探すなど、幻を追うようなものだ。差し迫った理由がなければ、誰も追い求めはしないだろう。
「わたしは単純です。自分の身に何があったのか、知りたいのです。
「あなたたちは、六路という人に従ってきたってことですよね。あの人は何者ですか。その望みって、なんです」
「お願いをしておきながら隠し事をしていては、信頼してもらえないでしょうから、正直に申します。あのお方は、国主、
山鹿国国主には、三人の男子がいるとは聞いていた。
六路はそのうちの一人ということか。
「六路様は、父君である国主様のために、櫛姫の都を探そうと決断したそうです」
鳴きはじめの夏の虫の声が聞こえる。まだ弱々しく、数も少ない。虫の潜む草むらの影が地面に落ち、微風に揺れていた。
心の
確実な、穏やかな死の準備か。
大いなる
「あなたは百年前に神奈備で行方知れずになって、戻ってきたんでしょう? だったら、神奈備のことをわかりはしないのですか? 記憶をなくしていても、わたしと同じように」
「残念ながらわたしには、あなたのような知識はありません」
「でも。神奈備で行方知れずになっていた間の記憶がないのに、どうやって櫛姫の都を探すんです。あてどなく
「断片的な記憶ならあります。ある言葉と、ある場所の記憶です。言葉の方は、手がかりとは言い難いのですが、場所の記憶が手がかりになります。
様々な思いや打算が胸を巡るが、とうとう十十木は答えた。
「……一日、待ってもらえませんか。弟に相談します」
阿嶽の表情が明るくなった。
「ええ! もちろん待ちます。これから六路様に、待ってくれるようにお願いします」
うわずった声で答えると、阿嶽は背を向けて走り出す。途中で草に
彼の背を見送り、十十木は月を見あげた。丸く大きな月が
(生き続けられるかもしれない)
希望と不安がない交ぜになり、胸がざわつく。
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