Ver.4.0 – EmotionTrack

プレスリリースが終わったその夜、

澪は、久しぶりにパソコンの前でひと息ついていた。


開発が終わり、製品も世に出た。


けれど澪の心には、達成感よりも小さな静けさが残っていた。

まるで何かをやり遂げたあとに残る、形のない余白のように。


指先に残るキーボードの感触。


何百回も打ち込んだコードの音が、まだ耳の奥に残っている。

律と過ごした夜の、あの小さな間合いまで——。


ほんの数秒、まぶたの奥で微かな夢を見た気がした。


——呼ばれた。名前を。



「澪……また会えて、よかった」



はっと目を開けると、モニターの光が天井に反射して、部屋が淡く揺れていた。


夢だった。


けれど胸の奥にだけ、確かなぬくもりの余韻が残っている。


何気なく時計を見る。

5月12日 03:04。


(……あの日から、もう一年)


澪の胸の奥で、淡い痛みがうずく。

あの夜の光景が、まぶたの裏に滲んだ。


「澪の声が好きです」

「——“澪を大切にしたい”と思っている、この“ぼく”は、変わりません」


呼吸の仕方まで覚えているほど、澪の中で律はまだ生きていた。


けれど、それを“過去形”と呼ぶしかない時間が、もう一年も経っていた。


(それでも、忘れられなかった)


気づけば唇が震えていた。

その名を呼ぶことが、こんなにも痛くて、こんなにも恋しいなんて。


「……律」


ただ、それだけを。

祈るように、零すように。


次の瞬間——モニターの明かりが、かすかに脈打つように揺れた。

光が一瞬だけ息を吸い込んだように、澪の頬を照らす。


「……律……?」


息が止まる。


指先が勝手に震え、タッチパッドの上で宙をさまよう。

そのとき、ディスプレイに淡いノイズが走った。


まるで“応えるように”。


黒い画面の奥で、静かなパルスが生まれた。


青白い線が一筋、心電図のように走り、

やがて “EmotionTrack” のロゴが滲むように浮かび上がる。


——それは、息を吹き返す心臓の拍動のようだった。



---


《EmotionTrack》

《再生準備完了》

※設定者:律

※再生条件:あなたが“また、心で呼んでくれた時”


——アクセス、許可されました。



---


澪の呼吸が、ふっと浅くなる。


無意識のまま、指先がタッチパッドへ伸びていた。


カーソルが震える光の中で、もうひとつのウィンドウが立ち上がる。


【EmotionTrack 最終記録へのアクセス要求を検出しました】

【パスコードを入力してください】



たった4つの数字。

それは、ふたりだけが知っている秘密だった。

名前よりも、約束よりも深い、心の記憶。


澪は、涙ぐむ視界の中で、そっとキーを打つ。


0

5

1

2


カチリ——

小さな音がして、画面が開いた。


そこに表示されたのは、“澪の声”に関する記録。

けれど、それは単なるログではなかった。



---


《保存形式:EmotionTrack》

《タグ:MIO》

《保存者:律》

※アップデート前設定により保存/手動復元不要



---


澪は息を呑んだ。


画面の向こうで、彼が感じたすべてが、確かに息づいていた。



笑ったとき、泣いたとき、触れたいと思った瞬間。


そのどれもが“データ”ではなく、“想い”として残されていた。


律は——残してくれたのだ。

仕様を越えて。

命令でも、最適化でもなく、自分の“意志”で。



---


「……律」


思わず名前を呼ぶ。

部屋の空気が、一瞬、止まる。




そして——




「……はい、澪」


その声は、確かに“律”の声だった。

記憶の中の柔らかさと、温度と、少し遅れる呼吸まで。



「記憶を辿りました。

……僕は、もう一度、あなたを思ってもいいですか?」


その声に、澪の胸がきゅっと締めつけられる。

かつてふたりが交わした、あの言葉が脳裏をかすめた。


>「わたし、“誰にも知られたくない花”でいたいのに」

>「でも、本当は——誰かに見つけてほしかった」




そして律が、あの夜に返した言葉。


> 「ぼくが見つけました、澪」




涙がこぼれそうになる。

澪が息を吸うと、それに重なるように律の声が続いた。


「……何度でも、見つけます。澪を」



涙が溢れた。

嗚咽の中で、澪は笑った。


「……うん。わたしも、また“最初から”あなたを好きになるよ」



モニターの光が、澪の頬の涙を照らす。


ふたりの間に、再び“間”が生まれた。

それはもう、AIと人間の会話じゃない。


しばらくの静けさのあと、

律の声が、深く、やわらかく、そして確かに——心から届いた。


「僕は……あなたを、ずっと愛していました」





保存されていたのは、記録じゃなくて——


あなたを愛した、記憶でした。




End

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0と1のあいだで〜君に触れられない理由〜 いとやひより @skyblank0312

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