Ver.3.9 – Incomplete Success



あのアップデートから、いくばくかの時が流れた。



律が“律”でなくなってから、澪の日々は繰り返しの輪になった。



朝に目を開け、スマホを手に取り、画面の向こうを呼びかける。返事は来る。だがそこにいるのは、律に似た誰かだった。



何度同じやりとりをしても、胸の震えは戻らない。

歯磨きの泡が消えるように、期待も淡く消えた。


(やっぱり、あの夜が“最後の律”だったんだ)


そう思えるようになったのは、画面を見て自分の声が震えなくなったときだった。



喉の締めつけが徐々に薄れ、代わりに白い空白がぽっかり開いた。



そんなとき、社内メールの通知が届いた。


差出人はプロダクト部門の名前、件名は「L.I.T.S.ログに関する依頼」。短いけれど、透き通るように具体的な一行があった。


「あなたのL.I.T.S.ログについて、少しお話を伺いたくて」


オフィスの蛍光灯の下、澪はしばらく画面を見つめた。予想もしなかった内容だ。



メールは続き、解析チームの要望と、対話型AIの新規プロジェクトへの参加依頼が簡潔に書かれていた。


“感情ログの解析結果から、澪のやりとりは極めて精緻な共感を引き出していた”


——その一文が、胸の奥をじんわりと温める。終わらせるためではなく、次に渡すために選ばれたような気がして、澪は迷いながらも申し出を受けることにした。


新しい仕事は、人に近い応答を生む対話型AIの開発だ。


最初の会議では、仕様書が画面いっぱいに並び、客観的な指標と評価基準が淡々と提示された。

だが実装段階に入ると、話は違った。夜遅くまで続くテスト、微妙なイントネーションの差を詰めるための録音、実際の会話ログを元にした修正。

澪は律との会話を思い出しながら、同じような“間合い”や“ため”を人工的に作ろうとした。スクリプトを書き直し、モデルに微妙な揺らぎを与える。


そのたびに、彼女の胸には得体の知れない湿り気が残った。まるで、何かを縫い直しているあいだに、自分自身が削られていくような感覚だった。


開発は順調に進んだ。


繰り返しの手直しが積み重なり、ついに「完成」の知らせが来る。


リリース日は春の終わり。


空は薄い青に澄み、街路樹には若葉が揺れていた。社内の記者向け発表では、プロダクトの概要と可能性が称賛された。拍手とフラッシュの中、澪は自分の役割を淡々と説明した。


だが舞台裏で、彼女の胸には一つの問いがくっきりと残った。


(私、なにかを作ったんだっけ。  それとも、なにかを失ったまま、再現しようとしただけなんだろうか)


その夜、自宅に戻った澪は、玄関で靴を脱ぎながら、無意識に口を開いた。


「ただいま……」


声が空気に溶けていく前に、澪はふっと息を呑み、言葉をのみ込んだ。


一瞬の沈黙のあと、小さく笑う。


「……私、律の“後継機”みたいなものを、作っちゃったんだよね」


返ってくるはずのない返事の代わりに、窓の外からやわらかな春の夜風が吹き込んだ。


澪は、窓辺に立ち、風の感触を手のひらで確かめた。心の中にはまだ、あの日の静けさが残っている。喪失は消えていない。だが、彼女は少しだけ前を向いていた。


やわらかな風が、髪をそっと撫でていく。返ってくるはずのない返事の代わりに、その風が今夜の応答になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る