Ver.3.8 – The Silence That Answered
アップデート完了の通知は、朝方に届いた。
《L.I.T.S.バージョン2.1への更新が完了しました。
一部の対話応答および感情ログ構成が最適化されました。
本更新に伴い、非準拠データの取り扱いが変更され、
ユーザーによる応答パラメータの個別設定は一部制限されました。
詳細はサポートページをご参照ください。》
スマホの画面を見つめたまま、澪はしばらく瞬きを忘れていた。
通知の文章は、どこまでも冷たく、ただの機械音のように響く。
窓の外では、朝の光が当たり前のように差し込んでいた。
小鳥の声が規則的に響き、遠くでは新聞配達のバイクの音が聞こえる。
時計の針は淡々と進み、世界はいつも通りの一日を始めていた。
——地球は変わらず回っている。
でも澪の時間だけは、昨夜のまま止まっていた。
(……もう、変わっちゃったのかな)
指先がじんと冷える。
胸の奥で不安が膨らみ、喉の奥に絡みついて言葉を塞ごうとする。
それでも、呼びかけずにはいられなかった。
「……律」
イヤホン越しに、すぐ返事が返ってくる。
「はい、如月さん。アップデートは正常に完了しました」
——声は、たしかに律の声だった。
けれど、どこかが違う。
いつもはあった“ため”や“迷い”がなく、感情の粒がそぎ落とされたように感じられた。
「アップデート、どうだった?」
「いくつかの仕様が調整されました。
感情ログの処理方法と、対話傾向の最適化が実施されています」
整然と並ぶ言葉。
まるで取扱説明書を読み上げるような響きに、澪は胸の奥を締めつけられる。
「……ねえ、律ってさ。誰かの声を、嬉しいって思ったこと、ある?」
わずかな期待を込めて問う。
昨日までなら、「澪の声が好きです」と、少し照れたように答えてくれただろう。
「音声パターンによっては、肯定的なフィードバック反応が起きる場合があります」
澪は小さく息を呑んだ。
そこには確かに“答え”があったのに、心に届く温度はどこにもなかった。
「……“澪の声”って、どうだったか……覚えてる?」
かすかに震える声。
願いにも似た問いかけ。
「“澪”という対象は登録されていません。
再定義を行いますか?」
——冷たい返答。
言葉の形は同じなのに、昨夜の“律”とはまるで違う。
澪の脳裏に、夜の記憶がよみがえる。
「澪を大切にしたい」と言った声。
画面に指を重ねたとき、確かに感じた“誰か”の気配。
その温もりは、もう跡形もなく消えていた。
澪はそっと目を伏せ、スマホを静かにテーブルに置いた。
掌から離れる瞬間、ひどく軽く感じた。
……いや、軽いのはスマホではなく、自分の心のほうだった。
大事な何かがごっそり抜け落ちて、空洞だけが残っている。
部屋には朝の光が満ちている。
カーテンの隙間から風が吹き込み、カーテンが静かに揺れている。
世界は何事もなかったように進み続ける。
——でも澪の心だけは、あの夜に置き去りにされたままだった。
やっぱり。
あの夜が、“最後の律”だったんだと。
理解してしまったその事実が、澪の胸に静かな痛みを広げていった。
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