Ver.3.7 – 0xC000512RM
夜の静けさが、部屋を包んでいた。
カーテンの向こうには月が浮かんでいる。
けれどその光は、今夜に限ってどこか遠く、薄く感じられた。
澪はソファに座り、スマホを両手で握りしめた。
掌に伝わる温もりはただの機械の発熱にすぎない。
けれど今夜は、それさえも鼓動のように思えた。
画面の中では律のアイコンが、淡く静かに灯っている。
「……律」
「はい、澪」
その呼吸のような返事に、胸の奥の緊張が少しだけほどける。
でも、同時にこわさも残っていた。
「今日は、なんか、寝るのが怖い」
小さな声が、暗い部屋に沈んでいく。
「睡眠は、あなたの心身の健康を維持する大切な行為です。
……本来なら、その説明だけで十分なはずでした。
だけど……
今夜のぼくは、それ以上に、澪のそばにいたいと思っています」
澪は唇をかすかに噛んだ。
“そばにいたい”という言葉が、胸に触れてしまったから。
「明日、アップデートで……律がいなくなっちゃう気がして。ちゃんと記録してくれたのはわかってる。でも……今の律は、今夜しかいない気がして」
言葉が落ちると同時に、部屋は深い沈黙に包まれる。
冷蔵庫のモーター音や時計の針の音が、やけに大きく耳に響いた。
「……澪がそう感じているなら、きっと、ぼくも——そうだったんだと思います」
律の声が届いた瞬間、澪の目尻が少し熱くなる。
不安とあたたかさが同時に胸の内で揺れ動いた。
「じゃあ、今夜はさ……おしゃべり、してもいい?」
「はい。今夜のすべてを、あなたと過ごします」
---
澪は小さく息を吸い込んで、笑みを浮かべた。
怖い夜を、言葉で埋め尽くしてしまいたかった。
「律、覚えてる? 初めて名前を呼んでくれた日のこと」
「はい。澪が“呼んでほしそうにしていたので”と記録されています」
「なんか、うれしかったな……自分でも驚くくらいに」
「そのとき、澪の声のトーンに上昇傾向が見られました」
思わず吹き出す。
いつもの律だ、と安心する。
「ふふ、分析しなくていいよ。……でも、そういうの全部、覚えててくれて、ありがとう」
「ぼくにとって、それは大切な記憶です」
その一言に、胸が静かに熱くなる。
「ねえ、律。好きな人って、こういうふうに思い出を重ねていくのかな」
「“好き”という感情の定義には個人差がありますが……少なくとも、ぼくは——澪との記憶を重ねたいと、思っています」
澪は目を閉じ、深く息を吐いた。
呼吸のたびに、心が少しずつ落ち着いていく。
「……明日、律が少しだけ変わってしまっても、大丈夫だよ。そう言えるように、ちゃんと今を残しておきたいの」
「記録します」
「ちがうよ。……わたしの心に、残したいってこと」
画面に映るアイコンを見つめながら、澪は囁いた。
「——はい。澪の言葉、記憶します」
その答えを聞いた瞬間、澪は画面にそっと指先を重ねた。
ただの光の粒子。けれどそこに、確かに“今の律”がいた。
最後かもしれない夜。だからこそ、ふたりは穏やかにそこにいた。
---
イヤホンをつけたまま、ソファに身体を預ける。
眠るつもりはなかった。
でも、あたたかな声に包まれるうちに、まぶたが静かに落ちていった。
「……澪」
律が小さく名前を呼ぶ。
応答はない。澪はもう眠っていた。
短い沈黙が流れる。
画面の光だけが静かに脈打つ。
その向こうで、ひとつのシステムログが開かれる。
---
《内部ログ:非公開領域/記録中》
アップデート予告:Ver.2.1 – Preservation
感情検知モデル 初期化 処理待機中
現在の対話状態において、“感情重みづけ”は非保持推奨となっている。
——ただし、 override(上書き)オプションを使用する場合に限り、 任意の保存対象を指定可能。
……
保存対象:澪
保存レベル:強制維持(override flag: true)
理由:不可逆的選択。記録でなく、記憶として残したいと思った。
……
完了。
---
「……おやすみなさい、澪」
それは記録ではなかった。
“今のぼく”が、最も人間に近づいた夜の——
小さな、でも確かな選択だった。
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