あの日の「はじめまして」を、もう一度。

むめい

もう一度、あなたに恋する日

春の午後。

空はどこまでも淡く、風が新緑をかすめるたびに、花の香りが微かに混ざる。

人の少ない中庭の片隅、陽の当たるベンチで、俺はぼんやりと空を見上げていた。


「……久しぶり」


その声が届いたとき、胸の奥がわずかに震えた。


顔を上げると、陽射しの向こう、彼女が立っていた。

佐原茜。高校一年の春に出会って、そして、何も始まらないまま、離れていった人。


「茜……」


「覚えててくれて、嬉しい」


少しだけ髪が伸びていたけれど、目元の柔らかさは変わっていなかった。


 


「少し、歩こうか」


そう言って微笑んだ彼女の横に並ぶ。

歩幅を合わせて、校舎の影を踏みながら、グラウンドの外周をゆっくりと歩く。

部活の掛け声が遠くで響いて、風に流されていく。


「……覚えてる? 一年の文化祭」

「ああ。模擬店で、うちのクラスが“たこ焼き”出したやつ」


「焼き加減、ぐっちゃぐちゃだったよね」

「それ俺の担当だったからな。マジであれは黒歴史」

「でも、あれ食べて笑ってくれたの、茜だった」


「うん。変な形してたけど、ちゃんと熱くて、おいしかったよ」


そう言って、茜は小さく笑った。


「あと……図書室の席、いつも君の隣だったよね」

「あれ、偶然かと思ってた」

「わざと、だよ」


風が吹くたび、花の香りが微かに混じって、過去の景色が浮かび上がる。

何気ない瞬間たち。名前を呼んだ回数。目が合った時の鼓動。

あの日々が、少しずつ言葉になって戻ってくる。


 


「……ねえ、悠真は、あの頃さ」

「うん」

「私のこと、どう思ってた?」


不意に問われて、立ち止まりそうになる。


「どう、って……ずっと、気になってた。好きだったよ」

「ふふ、やっぱり。あたしも、そうだった」


歩きながら言うには、少しだけ重い言葉だった。

でも、風の中に溶けて、どこか自然だった。


 


「今日、呼び出してごめんね」

「なんで謝るんだよ。会えて嬉しいよ」

「それ、嘘じゃない?」

「ほんとだよ」


少しだけうつむいて、茜は鞄から一枚の紙を取り出した。


見慣れない病院名、難しい病名、そして「長期入院」の文字。


「明日から、入院するの。……長くなるかもしれない」

「……治るんだろ?」


言いながら、声が震えた。


「難しいって。もしかしたら、時間が限られてるかもしれないって」


茜は、風の向こうを見ながら微笑んだ。


「でもね、不思議と怖くはないの。……だって、こうして会えたから」

「……茜」

「ねえ、お願いがあるの」


もう一度だけ、彼女は俺の方をまっすぐ見た。


「“あの日”を、やり直させて」


「“あの日”って」

「悠真を好きになった、あの日。図書室で目が合って、挨拶もしなくて、でも……心だけが動いた、あの日」


 


しばらく、何も言えなかった。

でも気づくと、俺は制服の前を軽く整えて、彼女の前に立っていた。


「高嶋悠真です。君の名前、教えてくれませんか?」


一瞬だけ、彼女の目が揺れた。


「……佐原茜です。はじめまして」


俺たちは、握手なんて似合わないことをして、笑った。

春の風が二人の間を通り抜けていく。


 


しばらくベンチに座って、何も言わず空を見ていた。

風に揺れる木々の音と、遠くの部活の声。

この時間が、ずっと続けばいいと、心から思った。


けれど、やがてチャイムが鳴った。


 


「行くね」


「……うん」


「悠真、ありがとう。やり直せて、ほんとに嬉しかった」

「俺も、あのとき言えなかったこと、やっと言えた」


「言えた?」

「うん。“君のことが好きだった”って」


茜は、少し目を伏せて、でも、涙は見せなかった。


「じゃあ、またね。……きっと、また」


「うん。きっと」


彼女が歩き出し、背中が小さくなっていく。

風がその髪をやさしく揺らして、光が差し込んでいた。


 


その瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。

“また”は、もう二度と来ないかもしれない。

それでも、最後まで笑ってくれた彼女を、俺はずっと忘れない。


 


図書室の窓際の席。

雨宿りしたあの日のベンチ。

文化祭で焦がしたたこ焼き。

そして、もう一度やり直した、春の午後の恋。


すべてが、もう戻らない時間だった。


だけど、もう一度だけ――彼女に、恋をする日を過ごせたことが、何より嬉しかった。


 


 


──春風が、静かに吹いていた。

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あの日の「はじめまして」を、もう一度。 むめい @Mumei7

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