【短編】時を超えた約束

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【短編】時を超えた約束

 1青いクレヨンと秘密の指切り

 


―それは、きっと世界で一番青いクレヨンだった。


 小さな私の掌にすっぽり収まる、短くなった青いクレヨン。隣に座る彼、アキラが、私のスケッチブックに、大きな海を描いてくれた。波の音が聞こえてきそうなほど、生き生きとした青色。その隣には、アキラの小さな手で描かれた、不格好だけれど力強いヨットが浮かんでいる。


「なぁ、サクラ。これ、俺が作った船な。いつか、この船で、地球の裏側まで行こうな!」


 アキラは、きらきらした瞳で私を見上げて言った。六歳になったばかりのアキラと、五歳の私。近所の公園の片隅にある、秘密の隠れ家。朽ちかけた木製のベンチが、私たちだけの特等席だった。


 私は、アキラの言葉に、嬉しくて思わず笑った。いつも元気で、私の少し引っ込み思案な性格を、まるで太陽のように照らしてくれるアキラ。彼は、私の人生に、たくさんの色をくれた。その中でも、一番大切な色は、この海の色だ。


「うん! アキラの船、世界で一番かっこいい!」


 私は、青いクレヨンを握りしめ、アキラの描いたヨットに、小さな赤い旗を付け足した。


「そんでさ、約束な!」


 アキラは、私の小指を掴んだ。彼の指は、私のよりも少しだけ太くて、温かかった。


「約束だよ、サクラ。俺が大人になったら、この船で、世界中の綺麗な海を見せてやる。地球の裏側まで、二人で行こうな!」


 私は、力強く頷き、アキラの小指と自分の小指を絡ませた。固く、固く、指切りをした。この約束は、私たち二人だけの、誰にも言えない秘密の宝物になった。その日は、夏が始まったばかりの、まだ肌寒い風が吹く日だったけれど、私とアキラの心の中は、真夏の太陽のように熱かった。


 


 2遠ざかる声と、残された青

 


 アキラと私の約束は、それからもずっと、私たちの心の真ん中にあった。幼稚園を卒業し、小学校に入学しても、私たちはいつも一緒だった。通学路の桜並木、放課後の公園、そして、私たちの秘密の隠れ家。アキラは、飽きることなく、色鉛筆で世界中の海を描いては、私に見せてくれた。


「見て、サクラ! ここはね、カリブ海って言って、もっともっと青いんだって!」


「すごい! どんな匂いがするのかな?」


 私たちは、いつか本当にその海を見る日を夢見て、笑い合った。アキラは、私にとって、家族よりも近く、誰よりも大切な存在だった。彼の存在が、私の毎日を、キラキラと輝かせた。


 でも、その輝きは、ある日突然、音もなく消え去った。


 小学三年生の春だった。いつものようにアキラと秘密の隠れ家で遊んでいると、アキラの母親が、真っ青な顔で駆け寄ってきた。アキラを呼ぶその声は、震えていた。


「アキラ! 大変なの! お父さんが……!」


 その後、何があったのか、幼い私には、詳しくは理解できなかった。ただ、アキラの父親が、突然、遠い場所へ行ってしまったこと。そして、アキラが、その日を境に、私から遠ざかっていったことだけは分かった。


 アキラは、もう私と公園で遊ばなくなった。学校でも、私と目を合わせようとしない。彼の顔から、いつもの明るい笑顔が消え、まるで、彼の周りの世界だけが、モノクロになってしまったかのようだった。


 そして、夏休みに入る前のこと。


「サクラ……俺、引っ越すことになったんだ」


 アキラは、そう言って、私に背を向けたまま、ポツリと言った。彼の声は、蚊の鳴くように小さかった。


「……え?」


 私の頭は、真っ白になった。引っ越し? アキラが、私の前からいなくなる?


「ごめん。急なんだ。もう、会えないかも……」


 アキラは、それ以上何も言わなかった。私の方を振り向くこともなく、そのまま立ち去ってしまった。私は、彼の背中を追いかけることもできず、ただその場に立ち尽くしていた。その手には、アキラが最後に残してくれた、青いクレヨンが握られていた。


 それから、アキラは本当に私の前から姿を消した。彼の家族が夜逃げ同然に引っ越したことを知ったのは、ずいぶん後のことだった。小さな私にとって、アキラとの別れは、あまりにも突然で、あまりにも残酷だった。


 残されたのは、アキラがくれた青いクレヨンと、決して果たすことのできなくなった「地球の裏側まで、二人で行こう」という約束だけだった。私は、あの夏以来、二度と海を描くことはなかった。私の世界から、アキラがくれた青い色が、消えてしまったかのようだった。


 3時の流れと、心の海

 


 それから、二十年の歳月が流れた。私は、平凡な人生を歩み、会社員として忙しい日々を送っていた。あの頃の無邪気な私とは違い、感情を表に出すことも少なくなった。心の奥底に、アキラとの約束を、まるで化石のようにしまい込んで生きてきた。


 あの青いクレヨンは、今も私の宝物だ。小さな木製の箱に大切にしまい込み、時折、こっそり取り出しては眺める。そのたびに、アキラのきらきらした瞳と、温かい手のぬくもりを思い出す。そして、叶わなかった約束が、胸の奥でチクリと痛んだ。


 ある日、会社のプロジェクトで、海外出張を命じられた。行き先は、地球の裏側、南米の小さな港町だ。旅の準備をしながら、私はふと思った。まさか、あの頃の約束と、こんな形で繋がるとは。


 飛行機を乗り継ぎ、二十時間を超えるフライトを経て、ようやく目的地の港町に到着した。湿気を含んだ熱い風が頬を撫でる。空港からタクシーに乗り込み、ホテルのある港へ向かった。


 タクシーの窓から見える景色は、まさに異国情緒に溢れていた。カラフルな建物、陽気な人々の声、そして、どこまでも広がる青い海。その海の色は、アキラが描いてくれた、あのクレヨンの海の色に、限りなく近かった。


 ホテルにチェックインを済ませ、荷物を置くと、私は我慢できずに港の近くを散策に出かけた。夕暮れ時で、空は鮮やかな橙色に染まり始めている。波の音が、心地よく耳に響く。


「すごい……」


 思わず、口から漏れた言葉だった。目の前に広がる景色は、私が今まで見てきたどの景色とも違っていた。アキラが言っていた「もっともっと青い海」は、本当に存在したのだ。その美しさに、私の胸は、言いようのない感動で震えた。


 私は、波打ち際まで歩いていった。冷たい水が足元に打ち寄せ、過去の記憶が、波のように押し寄せてくる。あの頃のアキラの声、彼が描いてくれたヨット、そして、固く指切りを交わした約束。


 叶わなかったはずの約束が、今、目の前で、現実のものとなっている。アキラはいないけれど、彼の夢見ていた海が、ここにある。


 その時だった。


「もしかして、サクラ?」


 背後から、聞き覚えのある、けれど遠い記憶の中にしか存在しない声が聞こえた。私は、思わず振り返った。


 そこに立っていたのは、少年時代よりもたくましくなったけれど、面影は確かに残る、あのアキラだった。彼の目には、あの頃と同じ、きらきらとした光が宿っていた。


 私の心臓が、激しく高鳴る。まるで時が止まったかのように、私はその場に立ち尽くしていた。


「アキラ……?」


 私の声は、震えていた。信じられない思いだった。二十年の時を超えて、こんな場所で、彼と再会するなんて。


 アキラは、ゆっくりと私に近づいてきた。彼の手に、何かを握っているのが見えた。それは、私の手に、二十年間大切に握りしめてきた、あの青いクレヨンと、全く同じ色、同じ形をした、もう一本の、短くなった青いクレヨンだった。


「やっぱり、サクラだったんだな。見つけたぞ」


 アキラの声が、夕暮れの港に響き渡った。彼の瞳は、温かい光に満ちていた。


「俺、約束、守ったぞ。地球の裏側まで、俺の船で、二人で来たんだ」


 アキラは、そう言って、水平線の向こうを指差した。その先には、夕日を浴びて輝く、一隻の小さなヨットが浮かんでいた。


 私の目から、止めどなく涙が溢れ出した。それは、悲しい涙ではなかった。失われたと思っていた約束が、二十年の時を超えて、今、目の前で果たされた喜びと、アキラとの再会への感動の涙だった。


「アキラ……!」


 私は、アキラの胸に飛び込んだ。彼の腕が、私を優しく包み込む。あの頃と同じ、温かくて、力強い腕だ。彼の胸の鼓動が、私の胸に伝わってくる。それは、私にとって、紛れもない、愛と、奇跡の再会だった。


 夕日が、水平線に完全に沈み、空には一番星が輝き始めていた。私たちは、固く抱きしめ合い、あの頃の約束が、確かに果たされたことを、互いの温もりの中で感じていた。


 青いクレヨンが、私たちの再会を、そして、失われた時を取り戻した「時を刻む約束」の証として、静かに輝いていた。


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