第三章:7 17年分、魂のゲロ

 これで、夕涼高校運動会を終わります。


 薄い窓から微かに聞こえた閉会宣言は、俺の胸をギュッと締め付けました。ああ、来る、責任が。寝そべるシーツを握りしめシワを作り、息を荒くしたり、歯を噛み締めたり、全身全霊で体調不良を装っていると遂に本当に熱が出始めました。

 しかし、救急車(俺にとっては精神のと言えます)を呼べるほどの不調ではなく、ただのプラシーボ効果なのです。

 絶対に会いたくない、彼女たちにも彼らにも、誰にも会いたくない。死にたい。消えたい。壊れたい。何か致命的な病気や怪我で入院したい。喋れなくなりたい。


「桜久くん、もう運動会終わったけど、大丈夫? 帰れる?」


「はい、なんとか回復しました。すみません、ありがとうございます」

 俺は元気を貼り付けてベットから立ち上がりました。徒競走が終わり、クラスメイトから懐疑と疑心と鬼のような視線を浴びて、俺は逃げました。熱を装って、特設された保健室で寝かせてもらっていたのです。


 俺はその保健室からも逃げるように去って、玄関に向かいました。クラスの連中とかち合う前にさっさと帰ってしまおうと考えていました。先ほど保健室で母と連絡を取り、車で迎えにきてもらうことになっております。

 外に出て、見渡すまでもなく母の姿を見つけました。それ以外にも他人の親らしき人が屯していましたが、その中でも母を一目で見つけられたのは、目立つ金髪のせいか、それとも、雲のようにポツンと独りで立っていたからでしょうか。

「あ! ロクくーん!!」

 母は俺に気がつくと、手を振って走り寄ってきました。俺は平常を繕って迎えに歩きました。

「お疲れ様! 見てたよーロクくんの走り! いやー惜しかったね最後。でも凄いかっこよかったよ」

「まぁね、ちょっと力尽きたよ。疲れたし、今日は早く帰りたい……」

「そうだよね、じゃ行こ」

 母は振り返り、駐車場の方向に歩き出しました。俺もその後ろをついて行こうと足を出した時、


「桜久!!」


 俺の名を呼ぶ大きな声が響いて、俺と母は一緒に振り向きました。心臓が破裂した、そんな幻覚を覚えるくらい鼓動が跳ねました。まさかこんな早く……何故。その疑問は些細なことで、別に知らなくたって構いませんでした。

「ちゃんと説明してくれるまで帰さないから!!」

「とりあえずこっちに来て!!」

 流石姉妹、怒った顔がそっくりです。俺は数メートル離れた彼女たちを見つめて、ただ絶句して立ち尽くすことしかできませんでした。前門の虎、後門のなんとやら、背後にえも言われぬ悍ましい瘴気を感じて、肉食獣を前にしたみたいに息を殺して、ただこの地獄絵図が消えてしまうことを待っていました。

「桜久! 私と付き合ってるのに、なんで、なんで……八真と……」

「先輩、付き合ってる人はいないって、誓いましたよね。嘘だったんですか? もしかして、付き合ってるって周りにバレたくないのって、ただ六花にバレたくなかったからですか?」

 二人はジリジリ寄ってきて言い詰めてきます。それに伴い、周囲の野次馬の視線も俺へと近づき、自然と俺もステージの上に立たされています。


「二股してたの? ねぇ、なんで?」

「もしかして、他にも付き合ってる人いるんじゃないですか?」

「私たちを騙してたんですか!?」


 ……彼女たちは数分間、俺に罵詈雑言を溺れるくらい浴びせましたが……俺なりに要約すると先の三つにまとめられました。たったこれを使えるのに紆余曲折の限りを尽くして、ぐちゃぐちゃに曲がりくねって、婉曲に伝えてくるのです。

 おそらく、女についてずっと考えていた俺だからこそ、この婉曲性を理解できるのです。



 ――ですが、こんなこと、何も嬉しくありません。


「――せぇ……」


「「え!? なに!?」」


 もうとっくに捨てた筈なのに、まだこんな『熱』が秘めされていたと知ると……結局俺もただの人間なんだと……思い知らされてるみたいで、とても惨めでした。



「うっせぇ、二股なんか知らねぇよ」



 俺は慣れない表情なのでギクシャクして、眉間に皺を寄せました。ただ、がむしゃらに、目の前の二人とその誤解が腹立たしく鬱陶しく、突っぱねました。己の口から発せられた声音がこんなに低かったのは、初めてでした。


「は? なに逆ギレしてんの?」

 六花が血管を浮かべて、俺に近づいてきました。俺も負けじと胸を張って動きません。

「六花、お前とは別れただろ、何今更言ってんだ」

「何言ってんの、別れてないし。距離置いてただけじゃん」

「それが別れることだっつてんだよ、今更彼女ヅラすんなよ」

「はぁ!? オメェが勝手に勘違いしただけだろうがよ!!」

 その瞬間、膝に蹴りを入れられました。グッと息を漏らして三歩ほどよろけました。

「てかなんで八真な訳!? 彼女の妹に手ェ出すとか普通にキモいんだけど!! マジでキッショ!!」

「知らなかっただけだし……」

「嘘つけや! 八真は私の妹って言ったらしいじゃん!! その後に妹に擦り寄ったんだろうがよ!! このゴミ人間!!」

 またズンズン言い寄ってくる六花に俺は怒りと恐怖の半々で、結局動かないことに執着しました。

 しかし、流石に暴力が出てきたところで、野次馬も止めに入ろうと決めたのか、知らない男女が「まぁまぁ」と、六花と俺の間に割り込んできました。

 ……ホッとしました。

 これに乗じて逃げようと考え、母の様子を見ました。すると、母がいた位置にその姿はありませんでした。

 どこへ行ったのか視線を動かすと、六花の隣に立って、手を振りかぶっていることに気がつきました。

「――――」

 息を飲んだその瞬間、辺りに破裂音が響き渡りました。空間が空白になるみたいに、音は辺りを停止させました。


「……ロクがそんなことするわけないでしょ。言い掛かりはやめてちょうだい」


 母が六花の頬を打ったのです。あの和やかで優しき母が手を上げた姿を見て、俺は涙が流れるのを止められませんでした。何故泣いたのか、俺には判りません。

「…………」

 打たれた六花は完全に正気に戻り、自分がしていた過ちを悔いて、呆然としていました。


「ねぇ、ロク、全部、嘘、よね」


「――――」

 母が俺に近寄ってくると(俺を止めていた男性は横に逸れました)、両肩に手を添えて、慰めるように言いました。俺はうんともいやとも言えず、ただ沈黙していました。俺の頬を汗が伝っていきました。母は俺より小さいです、なのにとても強大に見えて、とても力強く感じました。


 母は俺が居なくなってしまうことが嫌なのです。

 一人になりたくないだけなのです。

 別に俺じゃなくたって。

 なんでもいいのです。


「夫に見捨てられて子にも見捨てられる、それが嫌なだけだろ! あんたのはただのエゴだ! 俺のことなんか一回も見たことないくせに母親ヅラすんな!!」


「――――」


 俺は母の手を振り払って、言い放ちました。

「あんた夫が死んでから母親の自覚あるのか!? 俺に一回もご飯作らなくなっただろ! 洗濯もしなくなっただろ! ずっと、どっかほっつき歩いて夫を探してんだろ!! だから俺は叔父さんの家に世話になってんだ!」

 俺は拳を握りしめて、涙を流し、吐き出しました。

「アイツは死んだんだよ!! もうどこにもいねぇし帰ってこねぇよ!! 俺だってそのうち出ていくんだよ!! 独り立ちすんだよ!! あんたの寂しさを紛らわす道具じゃねぇんだよ!! 夫が帰ってくるための口実じゃねんだよ!! ……一回も俺を人として見なかったあんたを、俺は大嫌いだ」

 俺は顔を俯かせて、母の顔を見れませんでした。そのまま振り返って歩き出しました、この場の誰も見たくありませんでした。大人も子供も男も女も家族も他人も、全員に吐き気を催します。


「……ろ、ろくぅ……」


 その時、泣きじゃくる八真が俺の裾を掴んで引き留めました。呼吸は荒く顔を真っ赤にさせ、溢れ出した感情は止まらず、顎からポタポタ垂れていました。

「…………」

「わ、わたしっ、よくわかんないんだけど……結局、桜久はわたしのことがっ、すきなんだよね……?」

「…………」

 俺は考えて、ポケットからハンカチを取り出して、彼女の涙を拭いてあげました。それからそのハンカチを彼女の手に握らせて、スッと手を離しました。


「ごめんね。八真のことも、六花のことも、好きじゃなかったよ――俺は誰のことも、好きじゃなかったよ。――――ごめん」


 絶句する八真を置いて、俺は歩き出しました。行く宛なんてないのに、落ちなんて分かりきってるのに。


×××


 夜、暗くなってから、叔父さんの家に帰ると母は居らず、叔父さんから聞くと自分の家に帰ったそうです。心の底から安堵しました。

 叔父さんは何も聞かずに、俺にご飯を作ってくれました。

 ベットに入ってから優しさに泣きました。


 明日からの学校に不安を抱いて、俺は眠りに落ちました。

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グレイブ&グレイブ:21 秋田 @bombbombboom

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