不可思議

菅原 仁

不可思議

 突如、世界の音が止んだ。

 脳内に溢れるのは、当然の疑問。

 スマートフォンの画面から目を外し、静寂の理由を探す。


「おかしい……」


 先ほどまで、確かに風にたなびいていたカーテンは、まるで空間に貼り付いたように動きを止めている。いつも当たり前に時を刻んでいた時計は、15時3分27秒を指したまま、静止していた。


「まさか、そんなはずは……」


 あり得ないはずの想像に、嫌な汗がにじむ。


「これは、たちの悪い妄想だ」


 そう繰り返しながら、カーテンをかき分けて外を見る。

 交差点を曲がろうとするバイク、前のめりに駆ける子供、スポーツウェアの青年、井戸端会議に花を咲かせるおばさまたち。誰もが一様に、動きを止めている。


 喉がごくりと鳴る。

 困惑、恐怖、不安が、胸の奥からせり上がってくる。


 ――ガチャン。


 音が鳴った。音の出どころは台所。

 『誰もいないはずの家の中で音がする』という事実すら、この状況では些細なことのように思える。


「もしかしたら、私以外にも……?」


 希望と恐怖を胸に、足音を忍ばせて台所へ向かう。

 静寂の中、自分の心音や呼吸、骨の軋む音すら異様に大きく響く。

 音を立てぬよう慎重に歩き、そっと覗いた台所には――誰もいなかった。


 安堵と落胆がないまぜとなり、奇妙な感情がこみ上げる。

 ふと視界の端に、シンクの中の食器が映る。

 水を張ったボウルの中で、皿が一枚、かすかに揺れていた。


「朝から……洗い物、してなかったな」


 その瞬間。

 世界に、音が戻ってきた。


 驚きに突き動かされるように、再び窓へと駆け寄る。

 バイクがエンジン音を響かせて走り去り、子供は走り、青年は駆け、おばさまたちの笑い声が風に乗る。

 私は膝から崩れ落ち、大きく息を吐いた。


「夢でも……見てた、のか?」


 だが、さっきまでの静止した世界の記憶が、まざまざと脳裏に焼き付いている。

 記憶が、感覚が、あれが夢ではなかったと訴えている。

 しかし、それだけだ。客観的な証拠など、あるはずがない。


「いや……きっと、白昼夢だ。狐にでもつままれたんだ」


 記憶と感覚を否定し、そう言い聞かせるしかなかった。


 時が経ち、日常が戻っても、あの悪夢のような体験が幻か現実かわからなくなっても、薄れることはなかった。

 それからというもの、洗い物だけは、決して後回しにしなくなった。

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不可思議 菅原 仁 @kanbara_novel

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