3

何か物音が聞こえたような気がして、僕は不意に目を覚ました。いつものように猫が鳴いたのかと思ったけど、当の黒猫はソファの上で、体を丸めて寝る姿勢をとっている。時計を見ると、まだ深夜と言っていい時間帯だ。昨日は疲れてあれからすぐ寝てしまったせいだろう、変な時間に目が覚めてしまった。


(あ、いけない)


頭に装着したEmo-AIが、小さく震えて起動し始める。性懲りもなく、僕は目が覚めたらすぐに作業へのやる気が生成されるよう指示プロンプトを入れておいたのだ。でも、結果はいつも通り。もやもやとあいまいな感情が、あいまいなままかたちにならず消えていく。さすがにこのタイミングでやる気が湧き起こるはずないことくらいはわかるので、僕はいつものようにがっかりはしなかった。


にゃあ、と近くから鳴き声が聞こえて、僕は振り返る。いつの間にか黒猫が起き出して、僕のすぐ隣まで来ていた。僕が起床すると近くに来るようカスタマイズでもされているのだろうか。サイドランプをつけると、ベッドの脇にちょこんと座って、大きな青い瞳で僕を見つめる黒猫の姿が現れた。


夜中に目が覚めた時の常で、僕は急にトイレに行きたくなった。ベッドから出てトイレで用を足し、のども渇いたので水をコップに注いで飲む。サイドランプだけが灯った部屋は、薄暗くて、でもものすごく静かで、僕は不思議と落ち着いた気持ちになった。作業机に置いたままの《ルナ・ジルコニア》も、ランプの光を弱く反射してぼんやりと銀色に光っている。その輝きを見ていたら、なんだか急に玄関ホールのカグヤヒメ像をもう一度見たい気持ちになった。


(…今、って、部屋の外に出てもいいのかなあ)


案内ロボは、建物の外に出るには事前に相談が必要だと言っていたけど。建物の中については、特に何も言っていなかった気がする。案内ロボを呼んで確認すれば確実だろうけど、なんだかこんなに静かなのにそうするのはもったいない気がしてしまう。僕は少し迷ったけど、ひとりで玄関ホールに行ってみることにした。パジャマから普段着に着替えて、参加証が入った携帯端末をポケットに入れる。そうして部屋の外に出ようとすると、足元からにゃあ、と鳴き声が聞こえた。ドアの前に黒猫が座り込んでいた。


「…ついてきたいの?」

「にゃあ」


思わず問いかけてしまったけど、返事は肯定とも否定ともわからない。ドアを開けると、黒猫はとことこと歩いて外に出る。たぶん、ついて行きたいということだろう。僕はひとりで行きたいような気もしたけど、まあいいか、と思って黒猫を抱き上げ、玄関ホールへと歩き出した。通路は弱く照明がついているけれど、しんと静まり返って、人ひとりいない。警備ロボットの巡回なんかも見当たらなかった。


ここに来た時の記憶を頼りに、しばらく通路を歩いていくと、ほどなくして玄関ホールにたどりついた。台座の上でカグヤヒメ像が銀色に輝いている。よく見ると、すごく細かい造形だ。カグヤヒメは薄手の衣を何枚も纏っていて、その1枚1枚が丁寧に作りこまれている。一番上に纏った衣はレース編みのような模様が入っていて、照明の光が下に透けている。カグヤヒメの顔は日本人形に似ていて、どちらかというと素朴な感じだ。その一方で、カグヤヒメのまわりは華やかな花のような形の抽象的なオブジェに囲まれていて、カグヤヒメの素朴さとは対照的だった。


(やっぱり、きれいだなあ)


僕はため息をつく。できれば、昨日みたいに太陽光や月光を当てた姿をもう一度見たいのだけど。勝手に操作パネルに触っていいものだろうか。少し躊躇っていると、腕の中の黒猫が少し遠くを見るようにしてにゃあ、と鳴いた。


「おや、これはかわいらしい先客だ?」


人の声がして、僕は飛び上がらんばかりにびっくりした。振り向くと、ふわふわとしたショートカットの髪をした、同世代くらいの女の子が立っている。僕と同じコンテストの参加者だろうか。だったら会話なんてしちゃいけないはずだ。僕は反射的に2、3歩後ろに下がってしまった。


「ああ、びっくりさせてごめんね。きみ、学生コンテストの参加者の子だよね? 警戒しなくていいよ。私、これでもここの社員なんだ。ハルカワ・ミツキ。よろしくね」


ハルカワさんはにこにこと屈託なく笑いながら、胸元に下げていた社員証らしいカードを僕に見せてくる。そこには確かに「KAGUYA COMPANY」のロゴと、社員番号らしい数字や所属部署の名前とともにハルカワさんの顔写真が載っていた。


「こんな時間にカグヤヒメ像を見に来たの?」


社員証を胸ポケットにしまいながら、ハルカワさんが問いかけてくる。


「あ、はい、すみません、目が冴えて、眠れなくなっちゃって…」

「謝ることじゃないよ。確か夜でも社食と、玄関ホールと展示室あたりは自由に移動してよかったはずだし。でも、眠れないからってわざわざ見に来るなんて。そんなにこの像が気に入った?」

「はい、とても、きれいだと思いました」

「へええーー、うれしいね。この像の制作には私も関わってるんだよ。ここに入社してから、初めて参加した大きなプロジェクトだったんだ。実は私も、変な時間に目が覚めることがけっこうあって。そういう時は、こうやってカグヤヒメ像を見に来るんだよ」


にこにことハルカワさんがまた笑う。口ぶりからするとわりと年上なんだろうけど、こうして見ていても僕とそんなに変わらない年齢に見える。耳の下くらいで短く切った髪が、ふわふわと揺れている。ふと、ハルカワさんがEmo-AIを装着してないことに気がついて、僕はちょっと驚いた。僕のその表情に気づいたのだろう、ハルカワさんは微笑んで、「Emo-AIね、実はあんまり好きじゃないから、勤務時間以外は外すようにしてるんだ」と言った。僕はまたしても驚いた。


「あの、そういうことしても、大丈夫なんですか。僕、カグヤ・カンパニーみたいな大きな企業の人は、みんなEmo-AIを使いこなせる人で、いつでも装着してるものだと思ってました」

「まあ、そういう人も多いけどねえ。便利だし。うまく使えば仕事でもプライベートでもいつでもゴキゲンでいられるらしいしね」

「やっぱり、そういうものなんですか」

「でもねえ、Emo-AIって、もともとは仕事のストレスを紛らわすために使われ始めたものだろう? 取引先とのメールや電話のやりとりに、テキスト生成AIとかオペレーターAIが導入されたはいいけれど、結局そういうのじゃ対応しきれないしんどい案件だけが人間の仕事になっちゃってさ。『だったらしんどい時だけそのしんどさを受け流せるメンタルを持てるようにすればいい』って。そういう考えから始まったやつでしょ」

「そうなんですか?」

「おや、学校で習わなかった?」


知らない話だと思ったけど、そういえば、高校に入学したばかりの頃に特別授業でそんなことを聞いたような気もする。16歳になるとEmo-AIの使用が許可されるようになるから、高校でもひととおり使い方とか注意点とか、あとは歴史的なことも教える特別授業があったのだ。当時ちっとも真面目に聞いてなかったことを思い出して、僕はちょっと恥ずかしくなった。


「ま、最初はそういう感じだったんだよ。で、もともと精神医療の分野で、音波とか振動とかそういうのを体に流して、特定の脳内物質を増幅させたり減少させたりする研究は進んでてさ。それを応用してみたら、これがまあうまくいって。最初はそんなの怖いって反応もあったみたいなんだけど、なにしろ使えば便利だから。あっという間にこんなに広まっちゃった」


ハルカワさんは目を細めてふーっと息を吐く。そうしてカグヤヒメ像を見上げながら、慣れた手つきでタッチパネルを操作する。照明の色が変わって、カグヤヒメが透明なダイヤモンドのように輝き出した。


「実際、Emo-AIがうまく使えると、仕事は捗るしねえ。作業効率が上がる、対人ストレスも減る、プレゼンもいつでも自信満々でできる、いいことづくしさ。でも私は、これをプライベートでまで使いたいとは思わないなあ」


ハルカワさんの指先が、ふたたびタッチパネルに触れる。照明の色が白く変わって、カグヤヒメの色合いも変わる。金のような銀のような不思議な色合いの体から、七色の光が放たれる。その輝きの美しさに、僕はまたしても目を奪われる。その輝きを僕の隣でまぶしそうに眺めがら、ハルカワさんがぽつりとつぶやいた。


「…ストレスも不愉快も、人間の自然な感情だから。やっぱり、本物、が一番いいじゃない?」


(本物?)


言葉の意味をとらえかねて、僕はハルカワさんの方を向いた。七色の光に照らされて、ハルカワさんの横顔も不思議な光に彩られている。僕が話しかけるのを一瞬ためらっていると、僕たちのうしろから聞きなれた声がした。


「ハルカワ様」


振り向くと、いつもの案内ロボットがいた。カグヤヒメ像が光ったので、気がついて見に来たのだろうか。


「やあ、OUNA-003。巡回ご苦労さま。この子を迎えに来たの?」


案内ロボット相手にも、ハルカワさんは屈託なく笑う。ひらひらと手を振るハルカワさんに、少し嗜めるような口調で案内ロボは言った。


「ハルカワ様、あまりこのようなことをされては困ります」

「まるで規則違反みたいなこと言われるのは、心外だなあ。コンテストに参加する学生同士の交流は禁止されてるけど、社員との接触は別に禁止されていないでしょ?」

「それはそうですが…」

「心配しなくても、コンテストのアイディアの相談なんてしてないよ。ちょっとした世間話くらいさ。心配ならあとで玄関ホールの防犯カメラを確認するといいよ、OUNA」

「…おうな?」


ぽつりと僕がつぶやくと、案内ロボが「どうされましたか?」とこちらを向いた。ハルカワさんも目をぱちくりさせてこちらを見ている。


「あ、いえ、なんでもないです。ただ、名前があるとは思わなくて…」

「ああ、そういうこと」


七色の光を浴びながら、ハルカワさんはするっとOUNAという案内ロボの後ろに回りこみ、その肩に両手を乗せる。そうして、OUNAの背後からひょいと顔を出して、僕の方に話しかけた。


「当社で働くロボットはね、男性形はOKINA《オキナ》、女性形はOUNA《オウナ》って名前がついてるんだ。昔話の竹取物語で、地球にやってきたカグヤヒメの養父母になった人たちの名前だよ。今、会社にはそれぞれ10体ぐらいはいるかな。みんなお客様の案内だけでなく、社員の仕事や健康管理のサポートなんかもしてもらってて、まあなんというか、けっこう親しい存在なんだよ」

「おそれいります」

「いえいえ、いつもお世話になってるね」


ハルカワさんはスッとOUNAの肩から手を離し、飄々とした足取りで元居た位置に戻る。


「まあそんな感じで、社員にとっては馴染みの顔だけど、きみたちにとってはよくいる案内ロボットだろう。名前が気にならなくたって仕方ないよ。きみだって、普段名前を呼んでるロボットなんてその黒猫ちゃんくらいだろう? そういや、この子の名前はなんていうの?」

「え、あ……」


僕は言い淀んでしまった。そして、言い淀んだ自分にショックを受けた。

名前。黒猫の名前。おばあちゃんは確か名前を付けていた。でも、僕はどうしてか、それを覚えていなかった。聞いたことはあったはずなのに。腕の中の黒猫は、真っ青な瞳で僕を見つめている。そういえばここに来てから、僕は一度もこの猫の名前を呼んでいない。もしかしたら名前があることすら、気にしたことは、ない。


「あ、ごめん。言いたくなかったかな」

「いえ、そうじゃなくて… この猫はおばあちゃんからの借り物で…」

「そうなんだ? でも名前くらい… いや、そっか。いいね。なんかいいよ、きみ」


ハルカワさんの声音が変わった気がして、僕はどきっとした。にこにこと屈託なく笑っていた顔も、心なしか表情が変わっている気がする。七色の光に照らされて、両眼の色もやけに透き通って見える。じっと見ていると、すべてを見透かされてしまうようなまなざしだ。


「ねえきみ、まわりの人間に対してもそういうとこある? 責めてるんじゃないんだ。知りたいんだよ。他人の名前に興味ない、いいじゃない。きみみたいな子は、それでいいと私は思って―――」

「ハルカワ様」


OUNAが会話を遮ってハルカワさんの名前を呼ぶ。さっきよりももっと強い口調に聞こえて、僕は驚いた。ロボットがそういう声を出せるなんて、思ってもみなかった。


「社員といえども、あまりコンテスト参加者のプライバシーに踏み込むようなことはなさらない方がよろしいかと思います」

「ああ、ごめんごめんOUNA。そうだね。きみ、変なこと聞いて悪かったね」


ハルカワさんが頭を下げてきて、僕は恐縮してしまった。「あ、いえ」という感じでしどろもどろに返事をする。


「さあ、お迎えも来たし、きみはそろそろ戻った方がいいな。OUNA、彼を部屋まで送ってあげるといい。私はもう少し、カグヤヒメを眺めてから部屋に戻るよ」

「かしこまりました、ハルカワ様」


一礼して、OUNAは「では、戻りましょう」と僕を部屋に行くよう促す。僕は戸惑いながらも、「おやすみなさい、ありがとうございました」とハルカワさんにお辞儀をして、OUNAのあとをついて行った。視界の端に、ひらひらと手を振るハルカワさんの姿が見えた。そうしてしばらく廊下を歩いたところで、背後からふとなにかが聞こえてきた。ハルカワさんの声だった。



  いまはとててんのはごろもきるをりぞきみをあはれとおもひいでぬる



まるで呪文のような言葉だったけど、声自体はどこか歌うような響きだった。なにか意味があるのだろうか。僕が怪訝に思う雰囲気を感じとったように、OUNAがこちらを振り返ったので、「あの、今の言葉は?」と尋ねてみた。


「『今はとて 天のはごろも きるをりぞ 君をあはれと おもひいでぬる』、『竹取物語』に登場する和歌です。カグヤヒメが月に帰る直前に、迎えの使者に天の羽衣を着せられる場面で歌われたものです」

「あの、どんな意味なんでしょうか」

「天の羽衣を着てしまうと、カグヤヒメは地球であった出来事や出会った人のことをすべて忘れてしまうのです。そのことをカグヤヒメは悲しく思って、愛しい人のことを最後に思い出したという意味だそうです」


すべて忘れてしまう。その言葉に、頭に軽く電流が走る。


「すべて、忘れてしまう」


反芻するように、口に出してその言葉をつぶやく。

僕の腕の中で、黒猫が急にぴんと耳を立ててにゃあにゃあと鳴き始める。


「どうされましたか?」


異変を感じ取ったのか、OUNAが僕に近づいてくる。大きな銀色の瞳に、苦しそうにゆがんだ僕の顔が映っている。僕はその顔に見覚えがあった。それは母さんだ。そして、母さんの目に映っていた、僕だ。


母さんは僕が14歳の時にいなくなった。姉さんがいなくなって、父さんが死んで、おじいちゃんも死んで、悲しみのあまりなにもかもに耐えきれなくなった。Emo-AIを使って家族を失った悲しみを和らげようとして、あれこれと指示プロンプトを出して、結果的に記憶障害を起こしてしまった。すべてを忘れてしまった母さんは施設に入り、今は僕の名前も忘れている。実際のところ、記憶障害とEmo-AIとの因果関係はわかっていないようなのだけど。でも多分、それが母さんの本当の望みだったのだろう。Emo-AIは存在しない感情は生成しない。毎日泣いて泣いて苦しそうだった母さんは、今は施設で静かに過ごしている。なにもかもが違う世界の出来事だったみたいに、すべてを忘れて穏やかに微笑んで――――


「――――様!」


OUNAが僕の名を呼ぶ。いや、それは本当に僕の名前だったろうか。頭が割れるように痛い。頬に冷たい床の感触。いつの間にか僕は床に倒れこんでしまってたらしい。にゃあにゃあと黒猫が鳴く声が耳元から聞こえる。お前の名前は何だったっけ。僕はもう、あの時から住んでた世界のほとんどを失って、覚えていたはずのことも忘れていって、誰のこともどんどんどうでもよくなって―――――


ぐるぐると、頭の中がかき回されるような感覚が止まらない。

回転する世界の中で、僕の意識は真っ暗な闇の中に落ちて行った。





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かぐやは銀のまなざしで 巳波 叶居/叭居 @minamika

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