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風鸞
落ちて
10月上旬、夕暮れ時、東京。
私は今夜、ここで死ぬつもりだ。
◆
現在18時24分。本来、徐々に涼しくなるはずの時間帯なのに、額からは汗が止まらない。
通常ならもう夏が終わって秋へ向かう時期のはずなのに、毎年、そうならない。
異常気象。便利な言葉だ。いくら気候が狂っても、そのたった一言だけで済まされるんだから。
空は硝子細工のような透明な赤色から暗い色合いへと移り変わる。まるで西洋の名画のような幻想的で綺麗な空。
真っ赤な夕焼けも綺麗だけれど、私はこういう少し暗くて淡い空の方が好き。
デカデカと貼り付けられた看板や、電光掲示板の淡い光が、少し暗くなってきた町によく映える。
こういう看板とか電子広告は、きっと宣伝のためだけにある。けれど、こんな風に夜の街を彩っているのを見ると、それだけじゃないようにも感じられる。
──きれい・・・・・・少しだけ、ありがとうって思うのは、変かな。
街の喧騒が、私の耳の奥へと入っていく。
デートをしているらしい人、仕事の付き合いで飲みにいく人達、いろんな人達の声が、織り混ざって耳に入る。
日常の風景のはずなのに、とても遠く離れているように感じるのは、一体何故なのだろう。
こんな夜の町が、微笑ましくて、愛おしい。それなのに、何故か寂しい。
私、水瀬詩織は、ビルの屋上の柵にもたれて、夕暮れの街並みをぼんやりと眺めていた。
ほぅっと感嘆のため息を漏らす。
「街って、こんなに綺麗だったんだね。」
微笑して、今はもうそこにいない、美羽に話しかけるように、私は呟く。
何をしているんだって美羽は笑うかもしれない。けれど、こうすると、美羽がそこに、まだ、いるような気がするんだ。例えそれが事実じゃなくても、私の心をふっと軽くしてくれる。
虚しくはなるんだけどね。私は冷ややかに笑う。
・・・・・・馬鹿みたいだよね、本当に。
私はしばらく、夜の町を眺めて、何も考えず、ただただ感傷に浸っていた。
日が完全に落ちて、少しだけ肌寒くなってくる。
まだまだ秋は来ないと思っていたけれど、その肌寒さに少しだけ秋の気配を感じた。
秋が、来るのか。
最後のあの夏が、遠ざかってしまう。過去になってしまう。
美羽と過ごした、あの夏が。
へっくしゅ!
ふいにくしゃみが出る。
ティッシュで鼻を拭い、もたれていた柵から体を離した。
「肌寒くなってきたし、そろそろいきますか。」
そう、小さく呟く。
柵を跨いで、屋上のへりに立つ。
ふと、下を見る。
──知っていたけど、高い。想像していたよりもずっと。
覚悟はとっくのとうに決めていたはずなのに、足がすくんでしまう。
この場所に立ってみて、もう、引き返せないんだと実感する。
──なんで、こんなことやってるんだっけ。
どうして、こうなったんだっけ。
ああ、そうだ。私が美羽を自殺に追い込んでしまったからだ。
ひどいこと。本当にひどいことだ。なのに、私はひどいことだと気づけなかった。自分はずっと普通だったから。自分がおかしいと気がついた時には、もうやり直すことはできなくなっていた。
私は一体何がしたかった?
美羽が大好きだったはずなのに。他の誰よりも、何よりも。
私は美羽に救われていた。美羽は誰よりも明るくて、人気者なのに。ハブられていた、誰も近寄らなかった私に、手を差し伸べてくれた。
楽しかった。美羽と段々仲良くなって、私だけが、美羽の全てを知っていた。
なのに──美羽が神谷くんと歩いているのをみたとき、私は何かを失った。
私だって、神谷くんのことが気になっていたのに。デートにでも誘おうかなとか、考えていたのに。いつのまにか、神谷くんは美羽のものになっていた。
美羽は私から神谷くんを奪った──違う。
神谷くんのせいで、美羽は変わってしまった。私みたいな底辺にも気にかけてくれる、優しい人から、どこか、遠くへ行ってしまった。
神谷くんは私から美羽を奪った。
──いや、違う。そうでもない。
そうじゃないんだ、きっと。
もっと曖昧で、不明瞭で、名前さえない何か。
でも確かに、その何かはそこにあって、私の前から崩れ去ってしまったのだ。
私は何かを失った。後に残ったのは、強い喪失感だけ。
そう思っていたのに。
私の中に、何かが芽生えた。
名前なんてない、もっと醜悪で、どす黒くて、底が見えなくて、説明できないモノが。
たまに見せてくれる彼女の優しさが、怖くなっていった。もう前の優しさとは別物に感じられて。
でも、やっぱり彼女は優しかった。優しさに溺れて、甘えて、行き先が見えなくなっていった。
皮肉にも、どうしようもないほどお人好しな彼女の優しさが、私を壊した。狂わせた。
全部間違いなのかもしれない──そう思えた瞬間も、あった。
でもそれはいつも、私が手を伸ばすより早く、どこかへ消えていった。
私は、彼女に救われたかったのか?
それとも、壊したかったのか?
もう、何が真実で、私がどう感じていたのかさえもよくわからない。
でも、一つ確かなことがあるとするならば、私が、美羽をこの世界から消してしまったってことだ。いや、それさえも、確信と言えるほど定かではないのかもしれない。
何もかも、曖昧なんだ。ずっと、悪い夢を見続けていたような気分で、何もかもが、色褪せてしまっている。
私は元々、普通だった。
私を壊したのは、彼女だ。
彼女のせいで、私は狂わされたのだ。
ずっとそう思っていたけれど、それも正しくないのかもしれない。
もう、どうでもいい。色々考えたって、もう過去には戻れやしないんだから。
私は、ふと、空を見上げる。
ねぇ美羽、今見てる?今からいくよ、そっちに。
もし、見てるなら──。
私、優しいあなたが、大好きだった。多分だけど、今でも、ずっと。
でも一つだけ。たった一つだけ、願えるなら。
今更どうにもならない願いを、ふとつぶやく。
「私を・・・・・・正しくして欲しかった。」
屋上の床を蹴る。ネオンが、色鮮やかな照明が、視界の下へ、下へ、流れていく。
私たちが離れてしまうなら。
私たちが迷ってしまうなら。
そのたびに、また繋がれるように。
そう願った、ただそれだけなのに。
私は、どこかで道を誤ってしまった。
でも、どこで誤ったのか、もうわからない。
ねぇ美羽、私を──正しかった頃に、戻して。
耳の奥で、風の唸りと、どこか遠くの笑い声が溶け合って消えた。
私の願いは、命の火と共に消えた。
◆
『あの人は、私の女をとったのだ。いや、ちがった! あの女が、私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。私の言うことは、みんな出鱈目だ。』──太宰治「駈込み訴え」より
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