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風鸞

落ちて

10月上旬、夕暮れ時、東京。


私は今夜、ここで死ぬつもりだ。



現在18時24分。本来、徐々に涼しくなるはずの時間帯なのに、額からは汗が止まらない。


通常ならもう夏が終わって秋へ向かう時期のはずなのに、毎年、そうならない。


異常気象。便利な言葉だ。いくら気候が狂っても、そのたった一言だけで済まされるんだから。


空は硝子細工のような透明な赤色から暗い色合いへと移り変わる。まるで西洋の名画のような幻想的で綺麗な空。

真っ赤な夕焼けも綺麗だけれど、私はこういう少し暗くて淡い空の方が好き。


デカデカと貼り付けられた看板や、電光掲示板の淡い光が、少し暗くなってきた町によく映える。


こういう看板とか電子広告は、きっと宣伝のためだけにある。けれど、こんな風に夜の街を彩っているのを見ると、それだけじゃないようにも感じられる。


──きれい・・・・・・少しだけ、ありがとうって思うのは、変かな。


街の喧騒が、私の耳の奥へと入っていく。


デートをしているらしい人、仕事の付き合いで飲みにいく人達、いろんな人達の声が、織り混ざって耳に入る。


日常の風景のはずなのに、とても遠く離れているように感じるのは、一体何故なのだろう。


こんな夜の町が、微笑ましくて、愛おしい。それなのに、何故か寂しい。


私、水瀬詩織は、ビルの屋上の柵にもたれて、夕暮れの街並みをぼんやりと眺めていた。


ほぅっと感嘆のため息を漏らす。


「街って、こんなに綺麗だったんだね。」


微笑して、今はもうそこにいない、美羽に話しかけるように、私は呟く。


何をしているんだって美羽は笑うかもしれない。けれど、こうすると、美羽がそこに、まだ、いるような気がするんだ。例えそれが事実じゃなくても、私の心をふっと軽くしてくれる。


虚しくはなるんだけどね。私は冷ややかに笑う。


・・・・・・馬鹿みたいだよね、本当に。


私はしばらく、夜の町を眺めて、何も考えず、ただただ感傷に浸っていた。


日が完全に落ちて、少しだけ肌寒くなってくる。


まだまだ秋は来ないと思っていたけれど、その肌寒さに少しだけ秋の気配を感じた。


秋が、来るのか。


最後のあの夏が、遠ざかってしまう。過去になってしまう。


美羽と過ごした、あの夏が。


へっくしゅ!


ふいにくしゃみが出る。


ティッシュで鼻を拭い、もたれていた柵から体を離した。


「肌寒くなってきたし、そろそろいきますか。」


そう、小さく呟く。


柵を跨いで、屋上のへりに立つ。


ふと、下を見る。

──知っていたけど、高い。想像していたよりもずっと。


覚悟はとっくのとうに決めていたはずなのに、足がすくんでしまう。


この場所に立ってみて、もう、引き返せないんだと実感する。


──なんで、こんなことやってるんだっけ。


どうして、こうなったんだっけ。


ああ、そうだ。私が美羽を自殺に追い込んでしまったからだ。


ひどいこと。本当にひどいことだ。なのに、私はひどいことだと気づけなかった。自分はずっと普通だったから。自分がおかしいと気がついた時には、もうやり直すことはできなくなっていた。


私は一体何がしたかった?


美羽が大好きだったはずなのに。他の誰よりも、何よりも。


私は美羽に救われていた。美羽は誰よりも明るくて、人気者なのに。ハブられていた、誰も近寄らなかった私に、手を差し伸べてくれた。


楽しかった。美羽と段々仲良くなって、私だけが、美羽の全てを知っていた。


なのに──美羽が神谷くんと歩いているのをみたとき、私は何かを失った。


私だって、神谷くんのことが気になっていたのに。デートにでも誘おうかなとか、考えていたのに。いつのまにか、神谷くんは美羽のものになっていた。


美羽は私から神谷くんを奪った──違う。


神谷くんのせいで、美羽は変わってしまった。私みたいな底辺にも気にかけてくれる、優しい人から、どこか、遠くへ行ってしまった。


神谷くんは私から美羽を奪った。

──いや、違う。そうでもない。


そうじゃないんだ、きっと。


もっと曖昧で、不明瞭で、名前さえない何か。


でも確かに、その何かはそこにあって、私の前から崩れ去ってしまったのだ。


私は何かを失った。後に残ったのは、強い喪失感だけ。


そう思っていたのに。


私の中に、何かが芽生えた。


名前なんてない、もっと醜悪で、どす黒くて、底が見えなくて、説明できないモノが。


たまに見せてくれる彼女の優しさが、怖くなっていった。もう前の優しさとは別物に感じられて。


でも、やっぱり彼女は優しかった。優しさに溺れて、甘えて、行き先が見えなくなっていった。


皮肉にも、どうしようもないほどお人好しな彼女の優しさが、私を壊した。狂わせた。 


全部間違いなのかもしれない──そう思えた瞬間も、あった。

でもそれはいつも、私が手を伸ばすより早く、どこかへ消えていった。


私は、彼女に救われたかったのか?

それとも、壊したかったのか?


もう、何が真実で、私がどう感じていたのかさえもよくわからない。


でも、一つ確かなことがあるとするならば、私が、美羽をこの世界から消してしまったってことだ。いや、それさえも、確信と言えるほど定かではないのかもしれない。


何もかも、曖昧なんだ。ずっと、悪い夢を見続けていたような気分で、何もかもが、色褪せてしまっている。


私は元々、普通だった。


私を壊したのは、彼女だ。


彼女のせいで、私は狂わされたのだ。


ずっとそう思っていたけれど、それも正しくないのかもしれない。


もう、どうでもいい。色々考えたって、もう過去には戻れやしないんだから。


私は、ふと、空を見上げる。


ねぇ美羽、今見てる?今からいくよ、そっちに。


もし、見てるなら──。


私、優しいあなたが、大好きだった。多分だけど、今でも、ずっと。


でも一つだけ。たった一つだけ、願えるなら。


今更どうにもならない願いを、ふとつぶやく。


「私を・・・・・・正しくして欲しかった。」


屋上の床を蹴る。ネオンが、色鮮やかな照明が、視界の下へ、下へ、流れていく。


私たちが離れてしまうなら。

私たちが迷ってしまうなら。

そのたびに、また繋がれるように。


そう願った、ただそれだけなのに。


私は、どこかで道を誤ってしまった。

でも、どこで誤ったのか、もうわからない。


ねぇ美羽、私を──正しかった頃に、戻して。


耳の奥で、風の唸りと、どこか遠くの笑い声が溶け合って消えた。


私の願いは、命の火と共に消えた。



『あの人は、私の女をとったのだ。いや、ちがった! あの女が、私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。私の言うことは、みんな出鱈目だ。』──太宰治「駈込み訴え」より

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