香りの標本室

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香りの標本室


町のはずれ、ひっそりと佇む古い温室のような建物がある。そこは「香りの標本室」と呼ばれていた。


中にいるのは、白い手袋をした青年・ナユ。彼は空気に残る“記憶の香り”を集め、標本瓶に閉じ込めて保管しているという、少し変わった収集家だった。


ある香りは、母の胸に顔を埋めたときの柔らかなミルクの匂い。

ある香りは、初めて好きな人と手を繋いだときに漂っていた夏の雨の匂い。

ある香りは、別れの朝に開けた窓から入ってきた風の匂い。


香りは目に見えないけれど、確かにそこにあった時間を連れてくる。

ナユは来訪者にこう告げる。


「あなたの忘れたい香り、もしくは、もう一度だけ思い出したい香りを、教えてください」


ある日、一人の女性が訪れる。静かな瞳をしたその人は、短く言った。


「私、何も思い出せないんです。香りの記憶が、全部なくなってしまったみたい」


ナユは黙って頷き、棚の奥から、ほこりの積もった小さな瓶をひとつ取り出す。


「これは“無香”の標本です。香りがない香り。誰かの“空白”の記憶を詰めたものです。よければ、開けてみてください」


女性がふたを開けると、一瞬、何の香りもしなかった。けれど次の瞬間、彼女の目から涙が一筋こぼれた。


「……あった。思い出した。あの朝、病室で、ただ白いシーツの匂いしかなかったこと。声もなくて、香りもなくて、それが最後だった」


ナユはそっと目を閉じた。


「香りは、思い出すための道しるべ。でも、思い出すことで、新しい香りも生まれます。今日のあなたの涙も、今、香りになりました」


彼は棚に新しい瓶を置いた。ラベルにはこう書かれている。


「はじまりの涙」


それは、無香の奥にあった、確かに生まれたばかりの香りだった。


女性は帰り際、ふと振り返って言った。


「また香りを探しに来てもいいですか?」


ナユはやさしく微笑んだ。


「香りはどこにでもあります。けれど、探す旅は、いつでもここから始められますよ」



香りの標本室は、今日も静かに、目に見えない記憶の花を咲かせている。

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香りの標本室 sui @uni003

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