金木犀

粟野蒼天

金木犀

 夢を見た。初恋の君と一緒に草原にいる夢だ。遠くには黄金色こがねいろに輝くくさむらが見えた。植物に囲まれた丘の上で彼女は自身で作曲した曲を口ずさんでいる。僕はその光景を絵として残そうと油の乗った筆を動かす。君は風の手を取って、踊り舞っている。草葉が宙に飛び出し、花吹雪のように空間を彩る。その姿はとても幻想的なもので筆を動かさずにはいられなかった。絵の具をキャンパスに乗せる度に君の輪郭は鮮明にそして薄れていった。

 目を覚ますと、隣には初恋の君が寝ていた。穏やかな顔ですやすやと眠っている。その柔らかな髪に触れようと手を伸ばすが、僕の手には温かい布団の感触しか伝わってこなかった。

 布団から出て、瓶に添えられている金木犀きんもくせいの枝に水を与える。彼女が好きで窓辺に置いていたものだ。

 彼女が綴った曲を流しながら、僕は二人分の朝食を作る。ベーコンエッグにマーガリンをたっぷりと塗った熱々のトースト。水々しいレタス。マグカップにはコンソメを入れた温かいコンポタージュ。

 やがって彼女が大きな欠伸をしながらベッドから起き上がってきた。椅子に座り、朝食を取る。彼女が食べているものは一向に減らない。ひとつひとつが作りたてのまま残されている。僕は二人分の朝食を取り、洗面台で顔や歯を磨いた。

 ラフな服装に着替える。昼ご飯と画材の入ったリュクを背負い、僕達は家を出た。

 自転車の後ろに彼女を乗せ、僕はペダルを漕いだ。彼女は僕の腰回りに手を置き、落ちないようにしっかりと掴まった。時々被っている麦わら帽子が落ちないように片手で抑えようと顔を上げる。ペダルは非常に軽く人が二人乗っている重さはどこにもなかった。爽やかで涼しい夏風の中、ほんの僅かだが彼女の温もりを感じた。

 雲の影が流れていく。蝉の合唱が鼓膜に残る。森を抜け、市街地に出ると活気と熱を帯びた街には陽炎が揺らめき立っていた。

 自転車を木陰に止め、かき氷を頼む。青色のシロップの掛かったかき氷を口に運ぶと途端に頭が痛くなった。彼女にも食べさせると同様に頭を痛めていた。彼女はべーっと青く染まった舌を僕に見せて、以前にも同じ事があったねくすっと笑う。僕はそうだねと笑いかけた。僕はリュックから道具と取り出して、かき氷を食べている彼女の姿を精巧に描写していた。先を尖らせた4Bの鉛筆一本一本丁寧に彼女の輪郭を描いていく。擦れる鉛筆の感触で僕は生きていることを認識する。空になった器を戻し、僕達は再び自転車に跨った。

 石で出来た橋を渡り、木材で出来た花屋さんを通り過ぎ、街の外に生えた金木犀の木々を見つめる。オレンジ色の花が目に残る。

 近くから列車の汽笛の音が聞こえてきた。林を抜けると道の直ぐ側を蒸気機関車が通っているところだった。

 彼女は横を通り抜けていく列車を眺め「昔一緒に乗ったよね」と話しかけてくる。

 僕は「あぁそうだね」とつぶやき続けてその時のことを思い出し、彼女も「そうそう」と笑いかけてくる。

 そうして僕達の乗った自転車は、僕が夢で見たあの丘にたどり着いた。

 風が優しく吹き流れる。彼女は夢で見た通りに風の手を取って踊っている。僕はそれを側で見ながらその光景をキャンパスに描き出す。夢とは違って筆の感触や、油絵の鼻に付く匂いが僕を現実に踏みとどませる。

 鉛筆で下書きを取り、イーゼルを用いてキャンパスに油を混ぜた絵の具を乗せていく。彼女の挙動のひとつひとつを絵に残したい。いつまでも眺めていられるように。そんな想いで僕は筆を動かした。

 やがて日が傾き空が小麦色に染まると、キャンパスの絵ができあがってくる。完成した絵を彼女に見せようと一歩また一歩と距離を詰めていく。彼女が僕の方を振り向くといきなり強い風が僕達を襲った。スケッチブックは捲られ、草葉が舞う。僕は目を塞いだ。風が止み、目を開くとそこに彼女の姿はなかった。僕はキャンパスを持ったまま立ち尽くした。風がまた吹くと鼓膜に残っていた彼女の声が頭に流れ出してくる。そうだ。彼女は風と成ったんだ。小麦色の空を見上げ僕は涙を流した。ずっと貴方を想っていますと。

 

 

 

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金木犀 粟野蒼天 @tendarnma

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