花岡 紫苑

1.

 女子大生の頃、私はよく図書館の窓際の席に座って本を読んでいた。その図書館は私が住む街の駅のすぐ近くにあり、周囲にオフィスビルなどが建ち並んでいることもあって、夕方になり日が暮れ始めると、スーツや制服を着た人影がぼんやりと道を行き交う様子を窓から眺めることができた。私はぶらぶらと小説の並ぶ棚を巡り、その時々で「今日の私」に耳を澄まして、引き寄せられた本を手に取るのだった。

 秋になり、受験を控えているのであろう制服やジャージを着た高校生たちが、あちこちの席で勉強している。友人同士で来ているのか、隣の席にひそひそと囁きあっては声を抑えて笑っている子たちもいる。付近の座席にはそうした学生たちだけではなく、何冊も分厚い学術書を机に重ねてパソコンをカタカタといじっている大学生のような若者や新聞を広げる老人、雑誌のバックナンバーを開いたままうたた寝をする中年の女性などもいた。その誰もが私ほど長い時間はいないようで、1章、2章と顔を上げるたびにさっきまでそこに座っていた人は消え、代わりにまた知らない誰かに代わっている。

 3章の半ばまで読んだところで、ふと机の向こうの壁時計を見た。まもなく19時を指そうとしている。私はハッと本を閉じて元の棚の空白にそっと戻し、席に戻って手早く荷物を鞄に詰め込んだ。軽く忘れ物がないか確認し、足早に図書館を出て、大きい道路に面する手前にある大きな木の幹の陰にそっと佇んだ。そこは駅までまっすぐ向かう道で、私はときどきちらちらと駅とは反対側の道の向こうを覗きながら、スマートフォンに目を落とすふりをして待っていた。


 少し待つと、道の向こうからゆらりと、見慣れた歩き方の人影が現れた。堅苦しいビジネスバッグではなく、おそらく学生の頃から使い古しているようなくたびれたリュックを背負い、平均よりもやや細身な身体はスーツに着られているように見える。少し天然パーマが入っているようなふわふわした髪は、目にかかりそうなギリギリの位置まで伸びている。とても綺麗な顔立ちの、それでいてどこか不安定な心地のする青年だった。

 私はなんとなく息を止めて、タイミングを待っていた。彼が私の前を通り過ぎるより数メートル先の位置まで来るのを待つ。あと少し、あと数秒…。

 来た。私はなんでもない顔で、ぱっと前に踏み出す。さも図書館から今しがた出てきたばかりのように、なんでもない顔で彼の少し前を歩いていく。後ろは振り向かない。不自然なほどまっすぐに前を向いて、すたすたと歩いていく。

 ふわりと横に気配を感じて、顔を向ける。右側に彼が追いついてきていた。お互いに顔は合わせずに前を向いたまま、並んで歩く。

「今日は何を読んでたの?」

 決して大きくはないけれど、柔らかく鮮明な、独特な響きで彼の声がした。声に釣られてそちらを向きそうになる気持ちを抑えて、私は答えた。

「『瓶詰めの地獄』を読んでました。この前薦めていただいたので。」

 顔は見ていないけれど、彼がふっと笑うのがわかった。私もなんとなく頬が緩んで、少しだけ顔を左に背けた。

「この前、出張で東京に行ったよ。」

 彼は言葉をぽつり、ぽつりと置くように話す。独り言のようでいて、彼自身に耳を澄ましている人さえ聞いていればそれでいいというような置き方だ。彼が何か言葉を紡ごうとしているときは、私たちの左右をすれ違い行き交う人々には私たちは見えも聞こえもしていないんじゃないかと思う。

「どこか、行きましたか。あ、観光として。」

 我ながらどうしてこんなに途切れ途切れにしか話せないのだろうといつも思う。もともと声が小さくて弱い方ではあるが、彼と話しているときほど弱々しく聞こえる瞬間はないだろう。

「上野動物園に行ったよ。一人で行くの、ずっと小さい憧れだったから。」

「どう、でしたか。」

「楽しかったよ。みんなどこもかしこも寝てて、そりゃそうだよなって思った。」

 私は話を聞きながら、行ったことのない上野動物園の中の風景に想像を巡らせた。笹を齧りながらころころと遊ぶパンダ、きっと日本よりも暑い国にいるのであろう、奇抜な色をした鳥たち、カンガルーは昼時の日差しに疲れて砂にべったりと寝転んでいるかもしれない…。私は動物が好きだから、小さい頃はよく動物園に連れていってもらっては、檻の前から動かずによく両親に手を引いて急かされたものだった。

 彼は何を見たかったのだろう。なんとなく、ただ単に動物を見に行ったわけではないのだろうな、と思った。上手く言えないから彼には言わないが、空気とか空間とか、もっとぼんやりした枠組みで動物園を見ていたのだろうと思った。

 そんな会話をしているうちに、公園に着いた。公園といっても遊具はなく、石畳の上にベンチが等間隔で数個ずつ置かれ、空間の中心に何か塔のようなものを模ったオブジェがあるだけの場所だった。私たちはいつも通り、右奥のベンチに腰掛けた。座ると彼は、鞄から紙タバコを取り出して、ふう、と一服し始めた。このベンチは一番喫煙所から近い。銀色の細長い灰皿の方を見やると、他にも数人のサラリーマンが立ったまま煙草を吸っていた。

 彼の軽い溜め息が、白い煙となってふわっと空気中に上っていった。ちらりと彼の横顔を見やると、ぼんやりと煙の上っていく空中を眺めている。手元の箱には、レトロなフォントで「わかば」と書かれていた。

「一番遠くで、どこまで行ったこと、ありますか?」

 私は頭に浮かぶまま、唐突に質問した。

「私は、修学旅行で行った大阪、京都です。」

 彼は「急にどうしたの?」と笑うわけでもなく、少し考えてから、

「ここと、東京しか知らないかもしれない。」

と言った。

「修学旅行とかでも行ったこと、ないですか?」

「俺の学年、修学旅行なかったんだ。言われてみれば、ここで過ごすか、何か見にいくにしても東京くらいしか行ったことないのかもしれない。」

「修学旅行、なかったんですね。」

「うん。」

 彼は言葉を切って、ふーっと煙を吐き出した。

「俺の代、同級生が死んじゃったから。修学旅行の前の週に。」

 そうだったんだ、と聞いていい話なのかな、となんだかごめんなさい、で言葉に迷っているうちに、彼は言葉を続けた。

「同じクラスの女の子だったんだ。と言っても、俺はひと言ふた言話したくらいで、席も近くになったことない子だったけど。」

「どうして、死んじゃったんですか。」

 おそるおそる尋ねると、彼の目が途端にふっと無機質になった。ぼんやりと空中を見上げていることは変わらないが、瞳の奥がまったく平坦な無になっていた。思考も、感情も、まるで動きのあるものがすべてなくなってしまったようだった。

「どうしてだったんだろう。」

 少しの間、彼はぼうっとそのまま動かなくなった。それから不意にまた瞬きをして、

「学年が上がってすぐだったかな。ある日、行方不明になったんだ。放課後はいつも通り下校して、でも夜になっても家に帰っていなくて。最初のうちはみんな探し回ったし、地元の新聞にも小さく載ったんだけど、数ヶ月くらい経ったらみんな少しずつその話をしなくなっていって。夏が終わる頃には、みんな修学旅行はどこに行きたいかなんて話をしてた。

 そうしたら、秋になっていよいよ修学旅行だって空気になってきたときに、少し山に行った方の川辺で彼女が見つかったんだ。制服のまま、石を枕にするようにして、眠っているみたいな感じでいたらしくて。一応自殺だろうって扱いで終わったけれど、どこにいたのかも、何をしていたのかも、ずっと一人でいたのかも、何も分からなかった。」

 私は黙って聞いていた。彼はゆっくり、ゆっくり話す。いつも本や映画や絵の話はするけれど、この人が自分の内面に近い話をするのは珍しいなと思った。

「わからなかったなあ。」

 彼の目に思考や感情が戻る。こちらを向いて、まっすぐに私の目を見て言った。

「もし俺がその子とめちゃくちゃ話すくらい仲がよくても、春頃に戻ってこれから何が起こるのか知っていたとしても、結局あのことは何もわからなかったのかもしれないなって、いつも思うんだよね。こころなんて、一番突拍子もないもんだから。」

 彼は立ち上がり、喫煙所の灰皿まで歩いていってすっかり縮んだ煙草をぎゅっと押し付けた。こちらを振り返り、行こうか、とぽつりと言った。私はこくこくと頷き、小走りで彼の後を追いかけた。

 向こうの方で、駅の入り口のからくり時計が開いて鳴っている音がした。

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花岡 紫苑 @cicadaism

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