E-2 それでも、伝わるものがある

春の終わり、町の広場では「ことばの市」と名づけられた小さな催しが開かれていた。


本ではなく、声を売る市。

話すことでしか手渡せない“言葉”を、一言ずつ分け合う空間。


誰かが「はじめまして」を売っていた。

別の人が「会えてよかった」を譲っていた。

なかには「沈黙」を紙に書いて、何も話さず笑っている人もいた。


ミカは、色鉛筆と黒ノートを並べた机の前に立ち、絵と言葉のページを一冊ずつ複製して並べていた。

誰にも売らない。

でも、誰かが手に取ったときだけ、ページを開いて見せる。


その絵本には、声にならなかった言葉、絵になった想い、

そしてたった一言の呼びかけが書かれていた。


「あなたへ」


その本を読んだ子どもが、小さな紙を渡してくる。

そこにはつたない字で、こう書かれていた。


「わたし、まだことばがこわいけど、絵ならすき」


ミカはうなずき、ページを一枚破ってその子に差し出す。

そこには“何も書かれていない”、けれどやさしい色で塗られた空の絵。


「ここに、あなたの言葉を描いていいよ」


子どもは少し考えてから、小さな太陽を描いた。


それを見たとき、ミカはようやく確信する。


言葉は戻ったのではない。

 “誰かに届けようとする気持ち”が、言葉を呼び戻したのだ。


その日、夕暮れの空にたくさんの折り紙が飛ばされた。

誰がどんな言葉を込めたのか、全部は読めなかったけれど、風に舞う羽ばたきの一枚一枚が、確かに伝えていた。


かつて声をなくした世界が、静かに呼吸を取り戻す。

ゆっくり、確かに、やわらかく。


そしてミカは、心の中でこうつぶやいた。


「ありがとう」


まだ誰にも聞こえない。

けれどその響きは、もう孤独ではなかった。


沈黙が続いた日々の中で育った、

新しい伝達の芽が、今まさに花を咲かせようとしている。


言葉でなくてもいい。

声にならなくてもいい。


それでも、伝わるものがある。


それが、この世界の“残響”であり、

これからも紡がれていく、“声たち”の物語なのだ。

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残響のない声たちへ Algo Lighter アルゴライター @Algo_Lighter

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