【本文サンプル】蛇の谷

言端

蛇の谷

補完書士またはメモリーテイラーとは、前世紀の終わりから続く民間事業である。その名の通り、ネットワークに散財する尻切れ虫食い歯抜けのテキストデータを繋ぎ合わせたり、根拠をもって補ったりすることの専門家が五十名程度集って組織となった。そもそもこの三十年間ほど人間の職業は斉一化する一方だが、中でも民営となると、非合法と勘違いされていることもあるほどその存在感は希薄だ。実態は研究機関に近く、国家の資料室という位置付けである。補完書士は昔の呼び方だが、草太は「メモリーテイラー」よりも気に入っていた。過去に国家級のドキュメントを取り扱ってもいたのは事実だが、せいぜい半世紀でそれはお役御免となり、しかし忘れた頃にまた必要になるせいで、のらりくらりと絶滅を免れている。逆に、時代の節目でも訪れなければ、あってもなくてもいいということだ。今がそうだ。

「ブルーテイラー二八〇、ソウタタニザキ」

『生体認証クリア。ブルーテイラー二八〇ログインします』

 細い円柱から照射された光の膜が草太の顔を舐め、機械の門番が通行を許可する。多少古いが、セキュリティを筆頭に各種システムは国譲りだ。草太は祖父亡き後もそのコレクションごと引き継いだ家に住んでおり、自宅のマルチコンソールは祖父が現役時代のものだ。かなり古く、公共のコンソールに性能を抜かれるという始末なので、専らそちらを使っている。ターミナル址のどこかにオフィスがあるらしいが、草太は一度も行ったことがない。そろそろ二十年目になる同業者もそうだという。国からのお達しがなければ一生行くことはないのだろうと思いつつ、その頃には遺跡化しているのではないかと少し心配になった。角砂糖を並べたような、のっぺりとしているこの街も昔はシンジュクと呼ばれていて、競い合うように高いビルが空を埋め尽くしていた。祖父の持っていた小説に登場する摩天楼だとか不夜城だとかいう言葉を、草太少年は首を捻りながら読み流したものだが、後年写真を見ることがあり、そこで初めてなるほどこれがマテンロウでありフヤジョウかとわかったような顔をした。一見不合理の塊にも見える高層ビルも、当時の人口過多を鑑みれば仕方ない面もあったのだとわかる。今の構造では立って半畳でも足りそうにない。草太が少し考えたくらいでもそうなのだから、誰もやろうとさえしなかったのではないか。面積を持て余した現代に適応した街区のデザインは、過去にも人間の数に応じた建造物があったことに裏打ちされているのかもしれない。先人の仕事に頷くのはそれくらいにして、ようやく自分の見るべきテキストを展開する。

『2025.9.7.- 2026.3.1.』

『入江雪吉 イリエユキヨシ』

『原版は手記と推定 正確な記録日は不明』

 といった具合にタグ付けされている。これまでに草太が見てきたものはおおよそ、企業の情報が二割、ジャーナルが一割、個人の記録が七割といった内訳になる。企業情報やメディアジャーナルといっても主要なものはとうの昔にデータ還元されているから、内容はあってないような、スクラップだ。これらはネットワークの端や死角、人体でいうところの毛細血管にひっかかっているらしい。休みなしにネットワーク中を走り回っているAIの国営管理人は手当たり次第、それをゴミ箱送りにする。そうかと思えば、ゴミ箱の中では民営ディバイダーが目を光らせていて、本当のゴミと修復すべきゴミをせっせと仕分け直す。ディバイダーは修復すべきゴミを補完書士のハブに送る。ハブでは、今のところ最高傑作と目される自律機構が待ち構えていて、補完書士全員のステータスを把握している彼が、適切に仕事を振り分ける。その際に持ち主や日時データがインデックスとして付与される。彼には大層な本名があるが、日常的には呼びづらいので、その特性からボスと呼ばれている。古い作り話のように、彼が人間に対して反逆を起こしたことは今のところ、ない。

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