Hello,また会えたね

白鈴サキ

Hello,また会えたね

 ゴールデンウィーク初日。


 心の平穏が約束された数日間、「何をして過ごそうか」と考えていたのは約7時間前のこと。


 私は今――淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを片手に、キッチンに立っている。

 ジリジリとレトロな音を奏でながらダイヤルを回すトースターの前を通り過ぎると、香ばしいかおりも一緒にくっついてきて、つい足が止まってしまった。

 さきほど起きたばかりだというのにその香りにつられてなのか、おなかのあたりが小さく唸る。

 ごまかすようにコーヒーを流し込むと、程よい甘みと苦みに満足したのか、きゅうきゅうとなり続けていた腹の虫たちはずいぶん大人しくなった。

 ダイヤルに目をうつすと、0になるまではまだまだ遠い様子。

 待っている間とくにすることもなかったので、マグカップを持ったままリビングへ。

 カーテン越しでもわかる爽やかな朝日。水色のシンプルな分厚いカーテンの隙間から漏れ出す光に導かれるよう、ベランダの鍵をそっと外した。


 そよそよと優しい風が足元を通り過ぎていくと、薄いレース柄のカーテンが穏やかに揺れた。

 昇りたての太陽が部屋に時折入り込んできて、フローリングを明るく照らす。小鳥たちがチュンチュンと小さくさえずっている。どうやら人間には分からない話をしているらしい。

 息をするようにふわっと膨らんでは、なだらかな川のように流れるカーテンは、まるで私のいまの心境のようだ。


 ……なんて。

 ベランダに少し身を乗り出してみると、この時期独特の緑のさわやかな香りがすっと顔を掠めた。胸いっぱいにその香りを充満させるよう、深く深呼吸をする。

 手すりにもたれかかり、湯気の立つコーヒーを嗜みながらゆっくりとした時間を味わっていると――「チン」と軽快にトースターが鳴った。


 背後から聞こえてきたその音を合図に、部屋へと足を戻す。今からお邪魔する机の上に目をやると、開きっぱなしの参考書の数々が所狭しに散らばっていた。

 すっかりその存在を忘れていて、最後に触ったのはいつだっけ?と自ら問いかけるほどだ。長期休暇前なこともあり仕事が忙しく、ここ数週間はなかなか手をつけられなかった。

 めくられた形跡のない本を申し訳なさそうに机の隅っこへと追いやると、これから来る朝ごはんのスペースをマグカップで確保した。


 パタパタと履きなれたスリッパを鳴らしながら、急いでトースターの前へ。

 扉をゆっくりと下ろすと、こんがりと焼き目のついた厚切り食パンが顔ひょっこりとのぞかせた。

 近くに置いてある食器棚に手をのばし、いつも使っているシンプルな白いお皿の上を通り過ぎると、花柄の模様が入った上品なデザインのお皿を引き出す。ぶつからないように注意を払いながら、やっとの思いで手に取ったそれは、ごく普通の1LDKには似つかわしくないものだ。

 熱々の食パンを落とさないように丁寧に移動させ、そのまま冷蔵庫からバターとはちみつを取り出した。

 両手がふさがってしまっていたので、おしりの力を借りて冷蔵庫の扉を閉め、浮足立つ気持ちを抑えながら再びリビングへと向かった。

 マグカップが場所取りしていてくれた、雑に整理された机の上には焼き立ての食パン、マグカップ、はちみつとバター。それに参考書がある。


 「んー……」


 なにかが違う。こんなにも役者はそろっているというのに、いまいちピンとこない。

 お皿の位置?マグカップの向き?

 くるくると位置を変えてみたけれどどれも違った。

 最後、絶対にこれしかないと確信しながら目に入ったのは四隅に追いやられた参考書。

 それら数冊を手に持ち、所定の場所へと戻してあげた。

 あまり余白のなかった机の上がすっきりとして、汚れのない白色がピカピカと映える。

 これでよし。

 ようやく納得のいった私は、背もたれのついたおひとり様用のベージュのソファへと腰かけた。


 バターナイフを手に取り、ざらざらとした表面へバターを塗る。ちなみにバターではなくバター味のマーガリンだ。

 ある程度均一に塗った後、はちみつを少し垂らして同じように厚く塗り広げる。

 マーガリンの光沢とはちみつのつやつやとした光沢が美しい。

 迷いもなく一口かじる。

 ザクっと音をたてたあとに、あまじょっぱさともっちりとした食感が口の中に広がり、思わず頬が緩んだ。


「これはこれは……」


 いつも食べている市販の食パンとなんら変わりはないのに、どうしてか今日は特別に感じる。

 昨日、寝る直前に見かけたアレンジレシピには感謝しないといけない。

 今度は市販ではなくてパン屋さんの食パンで食べてみようか、とおいしさが確約された未来に期待を膨らませた。

 耳のはじっこの部分はかじるたびに、小麦の香ばしいかおりが鼻をすっと通りぬけ、さらに食欲をそそった。

 いつものようにテレビを見ながら惰性に食べるという行為をしないだけで、こんなにもおいしく食べられるんだと新しい発見。

 なんだか胸のあたりがじんわりとあたたかい。

 味わう楽しさを感じながらサクサク、サクサク……と夢中で食べ進めていると、いつのまにか食べきってしまっていたようで。

 お皿の上にはパンくずのみが残っていた。

 コーヒーでごまかしていたおなかも、これにはさすがに満足したようであったが、食いしん坊な私には少し物足りなかったりもする。

 あと一枚。袋の中に残っていたのはわかっていたものの、パンは糖質が高い。「ここは我慢」と心を鬼にした。


 ふうと一息ついたあと、少し冷めたマグカップを手に取り、中を覗く。

 普段の休日では考えられないことをしている。これが大型連休マジックというやつなのだろうか。

 会社の”有休消化日”という、勝手に消化日と称して都合の良いように扱われた私の貴重な権利たちは、このご時世なこともあり有意義に使われることはない。

 一応、旅行も考えていた時期もあった。しかし、その考えは砂糖のようにさらさらとすぐに溶けていった。人混みが苦手な人間にとって、この時期の旅行は地獄である。

 かといって昨今の増税や物価高の影響で、気軽に贅沢していいほどお金に余裕があるわけでもない。


 そんな私が考えた、連休の過ごし方というのが”あえて早起きをしてみる”というシンプルなプランだった。

 このあととくに予定を入れるわけでもなく、自分の気の向くままに過ごす。

 ウトウトしたなら昼寝するもよし。溜まっていたテレビの見逃し配信を見るのもよし。ただ、自分がしたいということに耳を傾けてあげる。


 なんの変哲もない日――そんな日を作るのも大切であると思ったのだ。


 マグカップの中身をすべて飲み切り、視線を上げる。

 はっと思いついたように、クッションの上に投げ捨てられていたスマートフォンを拾い上げると、おもむろに動画サイトを開いた。

 こんなに良い雰囲気なのに自然音だけではもったいない、とオシャレなカフェで流れていそうな音楽を探して再生ボタンをタップ。

 ゆったりとしたピアノの音が流れ出し、シンバルがシャンシャンと味をだす。

 春風がふわりと優しく部屋に入り込むと、それにつられてあたたかい光もやってきた。

 新緑のかおりも焼けたパンの残り香も、ジャズっぽい音楽も。この空間に訪れたどれもがいまは愛おしい。


 たまにはこういうのもありかも。

 自然と「ふふっ」という声が漏れていた。

 何も特別なことはしていない。だけど心はいまこの瞬間も満たされている。


 少しの間、音楽につられて体を動かしながら瞼を閉じていた。

 ゆっくりと時間を味わうように。



「……あっ」


 突然、風の音と、小鳥の音だけが部屋に残った。

 流していた動画の再生時間は数分前に終わってしまったのか、次の動画へ自動再生されることなく止まっていた。

 どうやら少しだけうたたねをしていたみたい。

 時間を確認するも、寝落ちする時間よりもさほど進んではいなかったので何時間も寝ていたわけではないらしい。

 まだうまく働いていない頭を起こすために小さく背伸びをする。

 眠気覚ましにコーヒーでもおかわりしようと立ち上がると、ふと本棚に目が留まった。

 文芸書や漫画が並んでいるその間に、一冊のA4サイズのノートは不自然に入り込んでいて、その存在感を放つ。

 私は、不思議と吸い寄せられるようにその本棚の前に立っていた。

 ほんのりと、てっぺんにほこりのかぶったそのノートを手に取ると、表紙にはなにも書かれておらず、自分でも何に使っていたのか思い出せないでいる。

 ただ、見覚えのある年季の入り方に、私は「もしかして」とページを静かにめくった。

 最初のページには拙い文章が並んでいた。でもどうやったらうまく表現できるかと試行錯誤した形跡はかすかに残っていた。


 これは――数年前、私が趣味で書いていた小説の一部だ。


 行の存在を無視して、乱雑に書きなぐられた登場人物とおもわれるキャラクターの設定。没になった設定はご丁寧に×印までつけられていた。

 あらすじのようなものも隣のページに書かれていたが、どうしたらそんな奇天烈な話が思いつく?と今の私では出てこない発想の数々に思わず笑ってしまった。

 ページの上部には折り目がつけられている部分もあったが、いまの私にはどうしてつけているのか全く思い出せない。

 シャーペンで書かれていたページは、手でこすれてしまったのか一部読めなくなっていたところもあった。

 消しゴムで何回も書き直したと思われる場所には紙がよれて擦り切れてしまっている。

 たまに当時の記憶がよみがえってきて、そんなこと書いてたなと思い出に浸りながら読み進めていると、とうとう最後の数ページになってしまっていた。


 男の子と女の子が出てくる話。どこにでもある普通の恋愛ものだった。

 ノートの前半にはなかった、細かく丁寧に練られたキャラや話の流れ。感情の起伏がよく書き起こされている。

 明らかにいままでよりも熱の入り方が違うと感じた。どちらもお互いのことを大切にしている描写。信頼しているしぐさや言動。

 いたるところにキャラへの愛が溢れていた。 その男の子と女の子が最後はどうなるかというシーンが目に入った。


 その瞬間――胸につっかかっていたなにかが溢れるように、流れ出す。


 そうだった。私はこの作品に出てくる登場人物をとても大切にしていた。

 社会に揉まれ、忙しい日々を過ごしながらもこの二人をどう幸せにしようかと夜中まで没頭する毎日。

 上手く書けたときは嬉しかったし、話がなかなか練れないときは苦労もした。

 しかしなによりも、この二人が幸せに物語の中で生きている。それがとても楽しくてうれしかった。誇らしかった。


 また生きがいでもあった。


 年齢を重ねるにつれて社会での責任も増え、次第に趣味に費やす時間も余裕もなくなっていき、蓋をされるように忘れ去られてしまっていった。

 飽きたというわけではないのに、向き合えなかった自分がいる。自分の体も大切だし仕方のないことはわかってはいるものの、自分の好きなものを投げ出してしまったような気がして、少しだけ胸がぎゅっとなった。


 このキャラクターたちは幸せだろうか。

 まだ二人はハッピーエンドという結末を与えられることなく、ずっと時が止まったままだ。

 物語とはいえ、私はこの二人を――物語を愛している。


 熱い思いが胸の底から湧き上がるようにじわじわと燃え広がる。

 その感覚に促されるよう、近くにあったシャーペンを掴み、先ほどよけた参考書のなかに埋もれていた真新しいノートを手に取ると、一目散に寝落ちしていたソファへと向かった。

 当時、書きたかった話や一文をひとつひとつ丁寧に思い出し、手繰り寄せながら書き起こし始める。キャラクターたちの口調や性格は何年たっても変わらない。

 水平に差し込んでいた光が、影を深く落とすようになるころ、ふと頭の中で女の子が「おかえり」とやさしく微笑んでくれたような気がした。


 ゴールデンウィーク初日。

 まだまだ私の連休は始まったばっかり。

 自分が愛したいものと向き合っても良いじゃないか。

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