観察対象#X30284
シンバ
―ログに刻まれた家族の記録―
朝の光は、薄く乾いた紙のようにカーテン越しに差し込んでいた。 ドリップのコーヒーがぽたりぽたりと落ちる音、味噌汁の湯気、トーストの焼ける匂い。 みのりの足音が、廊下のフローリングに軽く弾んで響いた。
「パパ、おはよー」 「おはよう、プリンセス。今日も世界一かわいいな」
そう言うと、みのりは照れ隠しのようにふにゃっと笑い、俺のひざに突撃してきた。
キッチンでは、優子が味噌汁の味見をしていた。 「今日もカレーの日?また3回おかわりするのかな」
「ぜったい3回する!」
笑い声が、朝の空気にじわりと染み込んでいった。
壁には家族旅行の写真。リビングには、みのりの描いた虹と動物の絵。 ニュースキャスターの声が、TVから薄く流れていた。
俺はノートパソコンを開きながら、スマホの通知を確認する。 昨日送った保育園改修の図面に対して、上司から「13時からフィードバックMTG」と連絡が入っていた。
これが、俺の世界だった。 名前は田中翔太。どこにでもいる、そこそこ真面目な男。 優しい妻と、元気な娘と、静かで退屈な日常。
……そう、昨夜までは。
夜、皿を洗い終え、布巾を置いてスマホを手に取った、その瞬間。
床下から青白い閃光が這い上がってきた。 冷蔵庫の側面が不自然に発光し、空間がぐにゃりと歪む。 耳鳴りのような静寂と、空気の緊張。ブレーカーは落ちていない。 だが明らかに、何かが“書き換わった”。
スマホを落とした。 昨日は画面にひびが入ったはずだった。 だが、朝には傷ひとつなく元通りだった。
朝起きると、隣にいたのは“早紀”。娘は“未来”。俺は“佐藤光一”。
どこか、違う。
朝食もある。笑顔もある。仕事の連絡も届く。
けれど、俺には“昨日の家族”が確かに存在していた記憶がある。 優子の声、みのりの走り方、団地の風景。
「優子って誰?」と早紀に聞かれた。
俺は笑ってごまかそうとしたが、彼女の目は笑っていなかった。
日々は進む。 だが、記憶だけが後ろに残されていく。
スマホに残っていた家計簿アプリの未同期データ。 「田中翔太」「優子」「みのり」……その記録が、かろうじて俺の過去を証明してくれていた。
地図アプリにはもう、あの団地の面影はない。 ストリートビューには見知らぬ分譲マンション。
LINE履歴の中で、アイコンは同じでもメッセージは別人のようだった。
俺はスマホを片手に、焦燥と空虚のあいだで呼吸していた。
未来が“アリサ”に変わり、早紀の話し方も少しずつ変化していった。
世界がじわじわと、俺から家族を奪っていく。
諦めかけた頃、海外の匿名掲示板に流れた奇妙なURL。 『CityFrameの実行ログが一部外部に漏れてる。/admin_log/stream/85/』
そのリンク先にあったのは、白地にグレーの無機質なログファイル群。 住人ID、感情傾向、構成変更理由コード。
「優子」「みのり」「田中翔太」 「早紀」「未来」「佐藤光一」
人間が、人間ではなく“構成単位”として記録されている。
俺は、震えながらログを複製した。
世界はシミュレーションだった。 そして俺だけが“観察対象”。
> 個体ID:#X30284 記憶保持バグによりロールバック失敗。
俺は知った。 この世界は、俺の知らぬ誰かが設計し、更新し、そして俺を観察している。
怒りが、胸の奥で冷たく膨らんでいく。
だが、ログは教えてくれた。
「観察対象に指定」され、再構築から除外されているなら―― 俺だけが、この世界に干渉できる。
俺は書き換えた。
ログを編集し、旧構成を再適用した。
光が揺れ、視界がかすみ――そして、あの朝が戻ってきた。
「パパ、今日はカレーだよ」
エプロン姿の優子。
リビングには、みのりが虹の絵を描いていた。
俺はそれを、ただじっと見ていた。懐かしさと、恐怖と、救済。だが、画面の隅に新たな一文が現れた。
> #X30284:干渉行為検出。再構築フラグ付与。
「パパ、聞いてる?」
「……ああ、聞いてるよ」
声が震える。
でも、笑った。それが、たとえどれほど不安定な奇跡だとしても。今ここに、確かに俺の“家族”がいる。
――次は、いつ終わるかもわからない。
観察対象#X30284 シンバ @msinba
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