ダンジョンで鹿と出会ったら
Suzubelle(すずべる)
第1話
朝の空気は、少しだけ湿っていて、まだ冷たい。
オレンジ色の安全ベストを羽織り、俺はリュックを肩に担いだ。
目的は釣り。
ダンジョンの奥にある小さな川で、晩飯の魚を何匹か釣り上げるつもりだった。
陽翔に誘われたわけでもない。
今日は完全に、俺一人だ。
申請アプリで入祠(にゅうし)手続きを済ませ、祠の前で軽く手を合わせる。
「本日、入らせていただきます。」
呟いてから、祠をくぐる。
ダンジョンの中の空気は、外より少しだけ濃く、湿っている。
遠くで小鳥の声と、どこかで水音が混じっていた。
地図、コンパス、応急キット、ライト、笛。
最低限の装備はリュックに突っ込んできた。
ナイフも、すぐ取り出せる位置に固定してある。
備えあれば憂いなし。
俺はビビりだ。
だからこそ、用心だけは人一倍している。
踏み跡をたどり、森の中を進む。
目指すは、あの川。
釣りをして、魚を釣って、早めに帰る。
今日の目標は、それだけだった。
――本当なら。
川はすぐに見つかった。
透明な水が岩をなめ、ところどころ白く泡立っている。
流れは緩やかで、浅瀬と深みが交互に続いている。
いい感じだ。
俺はリュックから折りたたみ式の小さな釣り竿を取り出した。
その前に、リュックのサイドポケットから細い糸と空き缶を取り出す。
近くの低木に、糸をピンと張り、缶を吊るす。
即席の鳴子。
何かが糸に触れれば、音で分かる。
用心だけは、徹底する。
釣りに集中するためにもな。
仕掛けを終えて、竿に餌をつける。
川釣り用のシンプルな仕掛けだ。
深呼吸一つ。
竿を軽く振ると、ラインがしゅるりと水面に伸びた。
ぽちゃん。
川の音に溶け込むように、静かにウキが揺れる。
待つ時間は、嫌いじゃない。
緊張も、焦りも、ここでは少しだけ緩む。
数分後、ウキがふっと沈んだ。
すかさず合わせる。
釣れたのは、手のひらより少し大きな川魚だった。
「よし。」
さっと締め、リュックのサブポケットに収納する。
もう少し釣ろうか――
そう思った、そのときだった。
背後で、カラン、と小さな金属音が鳴った。
鳴子だ。
ピタリ、と体が固まった。
リュックの中のナイフの重みを、無意識に確かめる。
ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは――
ツノバケジカだった。
普通の鹿ではない。
角は太くねじれ、毛並みは荒く、目は鋭く光っている。
魔獣の鹿だ。
奴は、俺をじっと見据えていた。
俺とツノバケジカは、互いにじっと動かなかった。
距離は、ざっと十メートルほど。
俺のタックル圏内でも、奴の突進圏内でもある。
一歩でも間違えば、即アウトだ。
鹿の黒い瞳が、じっとこちらを射抜く。
風が止まった。
川のせせらぎだけが、かすかに耳に届く。
手のひらにじわりと汗がにじむ。
ナイフの位置を確認し、意識の片隅でリュックの重みを再確認する。
心臓が、いやにうるさく鳴っていた。
逃げるか。
いや、無理だ。
この距離、この状況で背を向ければ、間違いなく追ってくる。
逃げ場もない。
なら、動くしかない。
俺はゆっくりと、重心を低くした。
足裏に地面を感じながら、わずかに膝を曲げる。
右手はリュックのストラップ近くにそっと添え、ナイフにすぐ手が届くようにする。
左手はわずかに前に出して、バランスを取る。
鹿が、わずかに頭を下げた。
その仕草に、喉がごくりと鳴る。
突進の前触れだ。
ここだ。
今しかない。
深呼吸一つ。
肺いっぱいに冷たい空気を吸い込み、吐き出す。
体を前に――
鹿が、地面を蹴った。
同時に、俺も動いた。
鹿が、一直線に俺に向かって突進してきた。
角を低く構え、土を蹴り上げながら迫ってくる。
速い。
それでも、想定の範囲内だ
俺はわずかに右へずれる。
真正面からはぶつからない。
あくまで、奴の横腹を狙う。
数歩、駆ける。
地面を蹴る力に合わせて、体をぐっと低く沈める。
タイミングは一瞬。
鹿の脇腹に、自分の肩をめり込ませるようにぶつけた。
鈍い衝撃音とともに、鹿の体勢がわずかに崩れる。
体重差はある。
だが、重心を崩せば勝機はある。
バランスを崩した鹿に、すかさず組みついた。
太い首に両腕を回し、圧をかける。
鹿は暴れようとする。
だが、こちらも必死だ。
呼吸を止め、全身に力を集中させる。
相手の重心、首の可動域、俺との体格差――
頭の中で、冷静に組み立てる。
どう崩すか。
どこを締めるか。
どの角度で、どれだけ力を加えるか。
感覚じゃない。
理屈だ。
徹底的に、理詰めで、獲る。
鹿の体がわずかに傾いた。
そこに、すかさず圧をかける。
逃がさない。
絶対に。
それでも、時間をかける余裕はない。
片手をリュックのホルダーに伸ばし、ナイフの柄を掴む。
ぐ、と力を込めて引き抜く。
鹿の体毛が、俺の頬をかすめる。
鼻を突く獣の匂い。
生きている匂い。
喉元の一点に狙いを定める。
震える手を、無理やり押さえつける。
逃がさない。
無駄に苦しめない。
ナイフの切っ先を、鹿の喉元に押し当てた。
皮膚の下、かすかに脈打つ感触。
生きている。
当たり前のことが、やけに重く感じた。
俺は静かに息を吸い、
それから、吐く。
狙うは、ただ一点。
迷いも、ためらいもいらない。
できるだけ早く、できるだけ苦しませずに。
両足で地面をしっかり踏みしめ、
ナイフを握る手に力を込めた。
そして、一気に突き刺した。
鈍い、湿った感触が手に伝わる。
刃が深く、確実に急所を捉えた。
鹿の体がびくりと跳ねた。
前足で地面をかき、角が空を切る。
それでも、俺は動かない。
鹿が最後の抵抗をする間、ただ、しっかりと支える。
呼吸が荒れ、喉から濁った音が漏れる。
それも、すぐに弱まっていく。
ぐらり、と体が傾いた。
支える腕に、鹿の重みがのしかかる。
ふわりと力が抜け、地面に静かに崩れ落ちた。
俺はそっと体を支えながら、膝をつく。
体温が、まだある。
だが、それも、急速に消えかけている。
鹿の鼓動が、最後の一打ちを刻み、そして止まった。
俺は静かにナイフを引き抜いた。
――ぴゅっと音を立てて、鮮血が勢いよく噴き出す。
温かい血が、手元を濡らす。
赤い飛沫が、地面に点々と落ちる。
ナイフについた血を、用意していた布で手早くぬぐった。
刃を傷めないように注意しながら、
リュックのサイドホルダーにしっかり戻す。
そして、両手を合わせた。
深く、頭を垂れる。
「ありがとうございました。」
心の中で、静かに呟く。
ツノバケジカの亡骸を前に、俺はすぐにスマホを取り出した。
手早く陽翔にメッセージを打ち込む。
《手、貸してくれないか。ツノバケジカ倒した。祠から川下って10分。座標【N35.9238 E139.5812】の辺り》
送信ボタンを押すと、すぐにリュックを背負い直す。
角を傷つけないよう気をつけながら、川沿いの踏み跡を歩き出す。
目指すのは、少し下った先にある開けた川辺だ。
川の流れは穏やかで、冷たく、鮮度を保つにはうってつけの場所だった。
流れの音に耳を傾けながら、
俺は静かに、慎重に、歩を進めた。
川辺に着くと、リュックからゴム手袋と解体用ナイフを取り出し、
耐水性のブーツを履き直す。
冷たい川の水に手を沈め、
鹿の体を洗い流していく。
血、泥、汗の匂い。
それらを、一つずつ、流していく。
毛並みに触れるたび、
「ありがとう」と心の中で何度も繰り返した。
命をもらったのだ。
だから、できる限りの敬意を。
洗い終えると、川のほとりに鹿を横たえ、
ナイフを構えた。
関節を探り、無理に裂かず、丁寧に切り分けていく。
取り出した肩肉やモモ肉を厚手の袋に包み、
再び川に沈めて冷却する。
作業に没頭していると、森の奥からガサガサと音が聞こえた。
振り返ると、陽翔がクーラーボックスを持ってやって来るのが見えた。
「……マジかよ。本当にツノバケジカじゃん!」
驚いた顔で言いながら、
陽翔はリュックを下ろしてすぐに手伝いに加わった。
「手早くやろう。暗くなる前に持ち出したい。」
「ああ。先に肩とロースは取った。あとは頼む。」
二人で手分けしながら、
残った部位も慎重に切り分ける。
袋詰めして、川水で冷却。
それを何度もリュックに詰め直して、運搬する。
太陽は徐々に傾き、
春の夕暮れが迫り始めていた。
自転車が置いてある駐車場へと何度も往復しながら、すべてを運び終える。
祠の駐車場に集めた荷物の山を前に、
陽翔と顔を見合わせた。
「皮剥ぎは……後日だな。」
「うん。落ち着いたらやろう。」
一部は陽翔の家の冷凍庫を借りて一時保管することにした。
俺も肩肉の一部を陽翔へと渡し、今日の労を互いにねぎらった。
「……やっぱ、すげえな、お前。」
「いや、ツノバケジカがすげえんだよ。」
短い会話を交わしたあと、
俺たちはそれぞれの帰路についた。
リュックに詰めた肉の重みを背負いながら、
自転車をこぐ。
背中に感じる重みは、
ただの肉の重さじゃない。
命の重みだ。
責任の重みだ。
春の夕風が、ほほを撫でた。
空は、茜色に染まり始めている。
今日という一日が、
静かに、静かに、終わろうとしていた。
ダンジョンで鹿と出会ったら Suzubelle(すずべる) @kinokonakinoko
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