海に蠢く

ウヅキサク

海に蠢く

  ――へぇ、お前、海が好きなのか。あ~、海、ねぇ……。まあ、そろそろ海シーズンになるもんなぁ。早いやつはゴールデンウィークで海に行く、ってやつもいるだろうし。

 海。海、なぁ……。

 俺? 俺は行かねぇよ。

 なんで? なんでって言われても……行きたくねぇから以上に理由なんてないよ。

 いや、嫌いというか、……元々は大好きだったんだよ。海。俺は海無し県出身で、海に憧れもあったし。

 ……なんで、って。……海、怖いんだよ。

 いや、まあそうだな。死亡事故とかもあるし、楽しいけど危ない所だよ。海は。

 でもそういうことじゃないんだよ。……もっと、こう、……怖い。

 ああ、もう分かったよ。分かった分かった。そうなんでなんでと繰り返すなよ。

 じゃあ、俺が海を怖くなった時の話をしてやるよ。

 俺が、なんで海を怖くなったのか。


 あれは……そうだな、丁度今頃の時期だよ。四月の終わり、ゴールデンウィークの始まりの頃だったな。

 旅行ついでに海に行ったんだ。海水浴場のある海だったけど、まだ海開き前でさあ。曇った、しかも風の強い、四月の終わりとは思えないような肌寒さの日だったんだ。正直、海に行く気分にはなれないような天気だったけど、せっかく来たんだからとりあえず海には入っておきたかったんだ。

 天気も悪いし、海シーズン前だし、海に来る物好きなんて俺くらいのものだろうと思ってたけど、海辺の駐車場には車が数台止まってて、砂浜にも数人、写真を撮っていたり、何かしてる人が見えた。

 駐車場に車置いて、海に入りたかったから靴も脱いで、素足で砂浜を歩いたんだ。

 砂浜が広くて、波打ち際まで結構距離があったんだ。砂がやたら細かくてさらさらしてて、素足で歩くのは随分気持ちよかったな。

 波打ち際で年甲斐もなくバシャバシャ波と戯れて、落ちてる貝殻を拾って投げたりして、楽しくなった俺は波打ち際を歩くことにしたんだ。

 ……笑うなよ。言っただろ? 俺は元々海が大好きだったんだって。いい年こいた大人になってたって、憧れの海を前にしたらテンション上がって心の中の小学生が顔を出すのも無理ないだろ。

 俺はひたすら波打ち際を歩いたんだ。風は強かったが、丁度その風が追い風になっててな。背中を押されるのに合わせてどんどん歩いて行った。その頃にはどんより曇ってた空も少しずつ雲の切れ間が見え始めて、風が強かったから、凄い速さで雲が流れて、時々パッと日向が現れたりして。そうなると、足元を擽る波の冷たさが凄く気持ちよかったり、日の光にあっためられた砂はほどよくぽかぽかしてたりして、まあ、俺は気持ちよく波打ち際をずんずんと歩き続けたんだ。

 いつの間にかポツポツ見えてた砂浜の人影も見えなくなって、俺はこの広大な海を独り占めした気分だった。

 ざあざあと波の音が俺を包み込んで、それに合わせて寄せては返す波が足元を擽った。波打ち際には貝殻の欠片や海藻、何だかよく分からないゴミなんかも落っこちてて、そんなのを眺めつつ俺はただ、風に押されるまま、波の音に導かれるまま歩いていたんだ。

 随分と歩いて、ふっと振り向くと、車を止めていた海岸の端は遙か遠く、霞んだようになって見えなくなっていた。その時、何故か急に俺は不安になった。耳に心地よかった波の音がやけに大きく、不気味に聞こえて、足を浸す波の冷たさにぞくりと背筋が冷えた。

 ……丁度その時に日が陰っていたから、そう思ってしまっただけだと、そう自分に言い聞かせて、もう一度俺は波打ち際を歩きだした。……でも、なんだろうな。その時の俺は、歩きたい、ではなく歩かなきゃいけない、と、……なんでか、そんな強迫観念みたいなものに捕らわれていたんだよ。

 さっきまで自分の背を押してくれてた風は、何だか自分を急かし、追いやってくる様な感じがしたし、波の音も怖いくらい大きく聞こえた。

 それに、……分かるか? こう、砂浜に立った時、足元の砂が持っていかれる、あの感触。あれがやけに気になったんだ。なんだか、砂と一緒に自分の足も持って行かれる感じがして。

 誰もいない、波の音しか聞こえない、日の光が差さない波打ち際。これの不気味さって、多分経験したやつにしか分からないと思うな。

何故か、鳥すらも見当たらないんだ。車に近い波打ち際には、小鳥が波の動きに合わせて走ってたりしたってのに。

 歩いてる内に、砂の質が変わったのか、足が砂に深く埋もれる様になって、そのこともどんどん俺の不安を煽っていった。

 歩いてたら、波打ち際に死んだ魚が転がっているのが目についた。正直そんなの見たくなかったはずなのに、何故か足が吸い寄せられる様にそこに向かっていった。

 魚の死骸の側で立ち止まって、そいつをしげしげと見つめると、死んでたのは、俺の掌くらいの大きさをした魚で、腹が破れて内臓がはみ出してた。大きな目が白く濁って、ぎょろりと虚空を見つめていて、何故かニオイは全くしなかった。

 ざあ、と、波が俺の足を呑み込んで、引いていった。その時、立ち止まっていたせいなんだろうな。足元の砂が抉れ流れていく感触が、波が足を包み込み撫でていく冷たさが、やけに強烈に感じられて、俺は、何故か咄嗟にこう思ったんだ。

 ――喰われる、って。

 なんでこう思ったのかは、自分でも分からない。でも、その時咄嗟に頭に浮かんだのはその言葉だったんだ。

 もう、限界だ。

 俺は、そう思って踵を返した。振り向いても、砂浜は永遠に思えるくらいに続いていて、端は霞んで見えない。

 広大な海に、砂浜に、存在しているのは俺一人。そう思ってしまって、孤独と不安に呆然と立ち尽くしたまま動けなくなった。

 ざ、ざ、ざあ、ざぶ、ざ、ざあ、と、不規則な波が、俺を引きずり込んで喰おうとしているかのように何度も、何度も寄せては返していく。

 俺は海に視線を向けた。暗い青緑の波うねっては白く泡立ち、立ち上がり、砂を巻き込みながら崩れ落ちていく。

 よく、波頭の白い泡立ちを『牙』って表現したりするだろう? あの表現、俺結構好きだったんだ。

 でも、あの時の俺には、それは牙なんていう格好いいもんには到底見えなかった。

 ……何に見えたかって? 

 ――白い、無数の手指だよ。

 白い波が、まくれ上がった波の頂で俺を招き、砂浜に向かおうと海面を蠢いて、俺の足を掴んで引きずり込もうと砂の上を這いずる、数え切れないほどの白い手や指の集合体に見えたんだ。

 俺は、情けない事に悲鳴を上げて波打ち際から距離を取った。

 そのままの勢いで俺は元来た方に向けて早足で歩きだした。

 でも、砂浜はただでさえ足が取られて上手く歩けない。その上、行きは俺の背中を押していた風が、帰りは俺の帰りを阻むかのように、正面から吹いてくるんだ。

 俺は必死に歩いた。風のせいで顔を真っ直ぐ上げられず、足元だけを見て、ひたすら歩き続けた。

 とにかく無心で歩き続けて、ようやっと駐車場が見えてくる頃には、砂浜にはちらほら人がいるのも見えて、なんなら晴れ間も見えて、俺は何だか凄く安心した気分になった。

 ……そのまま、真っ直ぐ車まで行けば良かったのにな。俺はもう一度波打ち際に歩いて行ったんだよ。

 晴れてて、人の姿もあって、車も近くにあるから何となく安心感があったっていうのもあるし、何よりやっぱり海が好きだったから、せっかく海に来たって思い出を不安と恐怖で終わらせたくないって、そう思ったんだよ。

 こっち側は暫く晴れていたのか、砂は程よく暖まっていて、波の冷たさもやっぱり気持ちよかった。

 なるべく、波は見ないようにしながらバシャバシャと少しだけ波打ち際を歩いて、さあ、帰ろうと海に背を向けた時。

 どう、と酷く大きな波の砕ける音がして、ざあと膝まで膝の高さくらいまで波が来た。

 背中から迫った波が、俺を追い越しわらわらと何本もの指を蠢かせて這いずり、砂に吸い込まれる様にして消えていく。

 その時、ぺたりと足首を何かが掴む感触がした。

 人の手だ。それも、沢山の。

 咄嗟にそう思ってしまって、全身が総毛立った。

 悲鳴を上げてその場から逃げようとして、盛大に足を縺れさせて尻餅をついた。

 ――足首には、黒々と妙に滑った海藻が巻き付いていた。

 でも、その時の俺に『なんだ、海藻が絡んだだけか』って安心できるような、そんな心の余裕は無かった。

 だって、足首を掴んだその感触が、確かに人の手のそれに思えてしかたなかったんだよ。掌があって、細く冷たい指がぎゅうと力を込めて掴んでくるような。

 俺は足をバタつかせて海藻を振りほどくと、そのまま一目散に車に向かった。

 尻は濡れて湿っていたが、そんなことに構う余裕もなく運転席に乗り込んで車を発進させ、近くのコンビニの駐車場でようやっと一息つくことが出来たんだ。


 ……これが、俺が海を怖いと思った時の話。

 この時以来俺は海には一度も行ったことがないんだ。だって、また白い波が手とか指に見えたら怖いじゃねぇか。

 あ、何。お前今度の休み海に行くのかよ。

 それなら気をつけろよ。……海に引きずり込まれないようにな。

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