第三十一話(後編)『風林火山』
夢から覚めた勝頼の心は、二つに引き裂かれ、激しく揺れていた。故郷を救う道は、何物にも代えがたい、魂を焦がすほどの誘惑だった。夢の中では、長篠の雨の中で散った馬場信春や山県昌景ら、忠臣たちの顔が、「今度こそ、我らをお救いくだされ、御館様」と、血の涙を流して訴えかけてくるようだった。故郷を滅ぼしたという、決して消えることのない罪悪感が、彼の心を鋭く抉る。
その苦悩を誰にも告げられぬまま、勝頼は皇帝の身分を隠し、粗末な服をまとって、夜明け前のまだ薄暗い洛陽の市井を一人歩いた。凍てつくような冬の空気の中、家々からは温かい朝餉の匂いが立ち上り、市場へ向かう商人たちの元気な声が響き始める。やがて太陽が昇り、都が目覚めると、そこには活気に満ちた平和な日常があった。子供たちの屈託のない笑い声が路地を駆け抜け、畑では農夫たちが穏やかな顔で土を耕している。その一人ひとりの顔には、戦乱に怯えていた頃の絶望の色はなく、明日への確かな希望が満ちている。
この光景は、紛れもなく、自分と陳宮たちが、血と涙の果てに築き上げたものだ。呂布の下で屈辱に耐え、下邳の泥水にまみれ、命からがら逃げ延び、そしてこの異郷の民と共に汗を流して、ようやく手に入れた宝物なのだ。
(わしがここを去れば、この平和は…この者たちの笑顔は、どうなる…? わしの罪を償うために、この民を、再び戦乱の地獄へ突き落とすというのか…? それは、わしが掲げた『仁』の道に、あまりにも反するのではないか…)
宮殿に戻った勝頼は、丞相・陳宮を私室に呼び、ただ二人きりで静かに問うた。
「公台。わしは…故郷で、あまりに多くのものを失い、多くの者を死なせた。わしの愚かさゆえに。それを、もし…もしやり直せる機会が与えられたとしたら…お前ならば、どうする?」
陳宮は、主君の、ただならぬ苦悩の表情と、その問いの奥にある、魂の悲鳴にも似た響きを深く感じ取りながら、揺るぎない眼差しで、静かに、しかしきっぱりと答えた。
「夢下。過去」
陳宮の言葉は、勝頼の心を射抜いた。そうだ。自分が救うべきは、過去の亡霊ではない。今、目の前で生きている、この民なのだ。陳宮は、わしがどちらを選んでも、その責務を全うすると言う。ならば、わしが選ぶべき道は、ただ一つ。
「父上…皆…すまない。わしは、武田四郎勝頼としてではなく、和帝・勝頼として、この地で生きる。わしが築くこの平和な世こそが、皆への、たった一つの、そして最大の償いだと信じて」
心の中でそう誓った時、まるで長年の重荷が下りたかのように、彼の心は不思議なほど晴れやかになった。彼は、過去の亡霊から解放され、真に「今」を生きる君主となったのだ。
――そして、数十年の泰平の歳月が流れた。
和帝・勝頼の治世は、中華の歴史に燦然と輝く「和の治」として後世に語り継がれた。老いた勝頼と、同じく白髪となった丞相・陳宮が、ある春の日、洛陽の宮殿の最も高い楼閣で、夕陽に黄金色に染まる都を眺めている。
傍らには、大将軍として生涯、国の守りを固め続けた張遼の孫が、若き近衛兵として誇らしげに控えている。法正は、その鋭敏すぎる知謀で国家の影を担い続けたが、数年前に安らかに世を去った。彼の築いた諜報と監察の仕組みは、今も国の安寧を静かに守っている。太傅・曹操も、劉備も、孫権も、それぞれの地で天寿を全うし、彼らの子や孫たちは、和の国の諸侯として、民と共に穏やかな日々を送っていた。諸葛亮は、陳宮と共に法制度を完成させ、中華史上最高の名宰相と並び称えられた。
「公台よ。思えば、長い、長い旅であったな」
老いた勝頼の声は穏やかで、その顔に刻まれた皺は、彼の歩んできた人生の深さを物語っていた。
「はっ。陛下と共に歩んだこの道こそ、某の生涯の誇りにござりまする。あの下邳の泥水の中で、陛下という希望の光に出会わなければ、今のこの景色を見ることは、決してございませんでした」
陳宮の目には、温かい涙が光っていた。
「わしは、あの日、この地で生きることを選んだ。今、この景色を見て…この民の笑顔を見て…わしの選択に、一片の悔いもなかったと、心からそう思える。わしは、故郷を救うことはできなかった。だが、この中原で、数えきれぬほどの民を救うことができた。それで…それで十分すぎるほどだ」
「陛下…」
陳宮は、もはや言葉にならず、ただ深く頷いた。
日出ずる国から来た龍は、過去の罪を償う道ではなく、異郷の民と共に未来を築く道を選んだ。彼の名は、武田勝頼、和帝。その物語は、国境と時代を超え、人々の心に永遠に語り継がれていく。
楼閣の頂には、風林火山の軍旗が、もはや戦のためではなく、泰平の世の象徴として、夕陽を受けて誇らしげに、そして静かにはためいていた。それは、一つの偉大な時代の終わりと、新たなる平和な時代の始まりを、いつまでも、いつまでも、高らかに告げ続けていた。
おわり
風林火山、中原を翔ける ~武田勝頼、三国志異聞~ チャプタ @tyaputa3
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