第2話 見知らぬ空の下で
朝霧が立ち込める森の中、真一は息子の健太と共に小さな木造の家の前に立っていた。エリザベスと呼ばれる女性魔術師が二人をここまで案内し、自分の家に招き入れたのだ。エーテルガルドと呼ばれるこの異世界に来て三日目のことだった。
「お二人とも、遠慮なさらずにどうぞ」
エリザベスの声には柔らかな響きがあった。四十代半ばくらいだろうか。深い緑色の目と赤褐色の髪、そして軽やかな身のこなしが印象的な女性だ。初めて会った時から、真一は彼女に亡き妻の面影を垣間見ていた。しかし、それは口にしなかった。
「お世話になります」
真一はぎこちなく頭を下げた。横の健太は無言のまま、眉間にしわを寄せている。彼はこの三日間、ほとんど口を利かなかった。現実世界で引きこもりがちだった息子は、まるで異世界という環境の変化に全身で抵抗するかのように、さらに殻に閉じこもっていた。
家の中はシンプルながら温かみがあった。暖炉の火が柔らかな光を投げかけ、壁には見たことのない花々や実のなる植物の絵が飾られていた。真一は文化人類学者としての目で、それらの絵に描かれた植物の特徴や配置に、この世界の何かしらの意味システムが反映されているのではないかと観察していた。
「ソフィア、お客人よ」
エリザベスが奥の部屋に向かって声をかけると、少し後に髪を乱した少女が現れた。十三歳くらいだろうか。母親に似た緑の瞳を持ち、しかし表情には反抗的な影があった。
「こんにちは」
ソフィアは形式的に挨拶すると、健太を一瞥し、すぐに目をそらした。
「あの、息子は健太、私は高瀬真一と申します。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
真一が言うと、エリザベスは首を横に振った。
「迷惑だなんて。異世界から来た方々と話せるなんて、私にとっては興味深い経験です。それに――」
彼女は一瞬言葉を切り、何かを思い出すような表情をした。
「私も以前、自分の世界を離れることになった経験があるんです」
その夜、真一は寝付けずにいた。隣で健太が小さく寝息を立てている。この三日間、彼は何度も現実に戻る方法を考えていた。しかし、同時に彼の心の奥では、この世界に来たことに対する不思議な安堵感があった。日本での生活、大学での仕事、そして何より、息子との間に広がる埋めがたい溝。それらから一時的にせよ逃れられたという安堵が。
そして、エリザベス。彼女の中に見た明子の面影。十年前に事故で失った妻の。真一は自分の中の感情の混乱に気づき、それを整理しようとしたが、疲れた意識はやがて眠りの中へと溶けていった。
「これが私たちの村の市場です」
翌朝、エリザベスは真一と健太を村の中心部へと案内した。ソフィアも渋々ながら同行していた。
市場は思いのほか活気に満ちていた。様々な色の果物や見たこともない形の野菜、透き通るような結晶体、そして光を放つ小さな球体などが並べられている。人々はみな独特の衣装を身につけ、言葉も日本語とは異なるが、なぜか意味は通じるのだった。
「文化人類学者としての観察眼が冴えていますね」
エリザベスが真一の視線に気づき、微笑んだ。
「ええ、つい職業病で」
「こちらの世界の観察記録をつけていらっしゃるんですよね。素晴らしいことです」
真一は少し恥ずかしそうに手帳を握りしめた。確かに彼は、この異世界に来てからというもの、学者としての習慣で細かな観察記録をつけていた。それは単なる記録を超えて、この世界を理解し、そして受け入れようとする彼なりの方法だった。
「父さん、いつもそう」
健太が小さく呟いた。三日ぶりに息子の声を聞いた真一は驚いて振り返った。
「何がいつも?」
「新しいことがあると、すぐにノートに書き込む。でも、実際に何が起きているかは見てない」
健太の言葉は鋭く、真一の胸に刺さった。彼は言い返そうとしたが、健太はすでにソフィアの方へ歩き出していた。
エリザベスは二人の様子を見て、静かに言った。
「親子関係は難しいものですね」
「ええ...特に思春期の子どもとは」
「ソフィアも最近は反抗期で。私の言うことを全く聞かなくなりました」
彼女の目に悲しみが浮かぶのを見て、真一は共感を覚えた。
「健太の母親は...十年前に事故で亡くなったんです。それからというもの、彼とはうまく会話ができなくなって」
言葉にした瞬間、真一は自分がなぜ見知らぬ女性に家庭のことを話しているのか不思議に思った。しかし、エリザベスの存在には、何か話したくなるような温かさがあった。
「私もソフィアの父親とは...もういません。この世界の人間ではなかったので」
それ以上は語らなかったが、二人の間には奇妙な連帯感が生まれていた。
一方、市場の別の場所では、健太とソフィアが無言で歩いていた。
「お父さんと仲悪いの?」
突然ソフィアが訊ねた。健太は肩をすくめた。
「別に」
「嘘つき。見れば分かるよ」
「君こそ、お母さんと」
「それは...」
ソフィアは何か言いかけたが、その時、市場の一角で小さな騒ぎが起きた。集まった人々の間から、一人の老人が姿を現した。白い長い髭と青い長衣を身につけた彼は、マーカスと呼ばれる図書館司書だった。
「おや、エリザベス。こちらは噂の異世界からの訪問者かね?」
マーカスの目は好奇心に満ちていた。エリザベスが真一を紹介すると、老人は熱心に真一の手を握った。
「素晴らしい!ぜひ図書館へ来てください。あなたの世界のことを聞かせてほしい」
彼の熱意に圧倒されながらも、真一は微笑んだ。
「ええ、喜んで」
エーテルガルドでの生活は、思いのほか早く日常になっていった。
真一はマーカスの図書館で多くの時間を過ごし、この世界の歴史や文化について学んでいた。彼の知識と観察力は村人たちから尊敬を集め、しばしば村の問題解決にも一役買うようになっていた。
一方、健太は最初こそ無関心を装っていたが、ソフィアの案内で村の若者たちと交流するようになっていた。特に、ソフィアが見せる魔法の小さな技に、健太は次第に興味を示すようになった。
「このエーテルガルドでは、魔法は科学と同じように論理的なんだよ」
ある日、ソフィアは健太に説明していた。彼女の手のひらに小さな光の球が浮かんでいる。
「でも、なぜ君はそんなに魔法が得意なのに、みんなから距離を置かれているの?」
健太の素直な質問に、ソフィアは驚いたように目を見開いた。
「わかるの?」
「ああ。俺も日本ではそうだったから」
彼は自分でも意外なほど率直に話した。
「お母さんが死んでから、周りと話すのが怖くなって。だから家に引きこもるようになったんだ」
ソフィアは光の球を消し、膝を抱えた。
「私のお父さんは、この世界の人じゃなかったの。だから私は半分よそ者...みんなは私の魔法を恐れているの」
二人は沈黙の中にいたが、それは不快なものではなかった。共感という見えない糸が結ばれつつあった。
その夜、真一が図書館から帰ると、珍しく健太が待っていた。
「今日、ソフィアと話したんだ」
父親に語りかける息子の姿に、真一は戸惑いながらも嬉しさを感じた。
「そうか。どんな話を?」
「彼女のお父さんのこととか。それと...」
健太は少し迷った様子で、「お母さんのことも話した」と続けた。
真一は黙ってうなずいた。明子の死後、彼らは彼女について語ることを避けてきた。それは二人にとって、あまりに痛々しい記憶だったから。
「お母さんのこと、もっと教えてよ」
健太の声は小さかったが、真一の耳にはっきりと届いた。
「明子は...とても明るい人だった」
真一は言葉を選びながら話し始めた。
「君が生まれた時、彼女がどれだけ喜んだか。腕の中で君を抱きながら、『この子は私たちの宝物ね』と何度も繰り返していた」
記憶の扉が開き、明子の笑顔が鮮明に蘇った。真一は息子に、妻の好きだった食べ物、花、そして彼女の夢について語った。
「お母さんは最後まで、君のことを一番に考えていたよ」
健太の目に涙が浮かんでいた。真一は息子の肩に手を置き、二人は長い間そうしていた。
次第に村での生活が落ち着いてくると、真一は元の世界に戻る方法を真剣に探し始めていた。マーカスの協力を得て、彼は古文書を読み漁り、過去に異世界から来た人々の記録を調査していた。
「ここに興味深い記述があります」
ある日、マーカスは古い巻物を真一に見せた。
「かつて、『星の橋』と呼ばれる場所から異世界への門が開いたという記録が」
真一はその記述に見入った。「星の橋」とは、村から半日ほど離れた山の頂にある古代の遺跡だという。そこにかつて異世界への門が開いたと記されていたのだ。
「でも、その門を開くには特別な力が必要で...」
マーカスが言葉を濁すと、真一は彼の表情から何かを察した。
「エリザベスの力ですか?」
老人はうなずいた。
「彼女には特別な能力がある。しかし、彼女自身がその力を使うことを恐れているんだ」
真一はエリザベスの家に向かった。玄関で彼を出迎えたのは、ソフィアだった。
「お母さんなら、裏庭にいるわ」
彼女は珍しく穏やかな表情で言った。
裏庭に出ると、エリザベスが花壇に水をやっていた。真一が「星の橋」と異世界への門について訊ねると、彼女は動きを止めた。
「マーカスが話したのね」
「はい。あなたの力で元の世界への門が開けるかもしれないと」
エリザベスは深いため息をついた。
「私の力は...危険なの。最後に使った時、夫を失ったわ」
彼女の目に悲しみが浮かぶのを見て、真一は自分の要求がいかに傲慢だったか気づいた。
「すみません、無理を言って」
「いいえ」
エリザベスは真一の目をまっすぐ見つめた。
「あなたたちには帰るべき世界がある。それに...」
彼女は少し言葉を切り、「ソフィアが最近、変わったの。健太さんのおかげで」と続けた。
「彼女、笑うようになったのよ」
真一は驚いた。確かに最近、健太も変わった。以前のように引きこもりがちではなく、積極的に村の人々と関わるようになっていた。彼はこの異世界での生活を、少しずつだが楽しみ始めているようだった。
「私たちも、こちらの生活に少しずつ馴染んでいます」
真一は正直に答えた。
「でも、いつかは帰らなければ。健太には、彼の世界での人生があるから」
エリザベスは微笑んだ。
「分かったわ。でも条件があるの」
「何でしょう?」
「『星の橋』に行く前に、グレイソン伯爵に会って許可をもらわなければならないの。彼はこの地域の支配者で、異世界からの訪問者を危険視しているから」
次の日、真一は健太に「星の橋」のことを話した。彼は息子の反応を恐れていた。もしかしたら、健太はこの世界に残りたいと言うかもしれない。あるいは逆に、一刻も早く帰りたいと言うかもしれない。
「そうか、帰れるかもしれないんだね」
健太の表情からは何も読み取れなかった。
「でも、その前にグレイソン伯爵という人に会わなければならないらしい」
「伯爵?」
「この地域の支配者だそうだ」
健太は窓の外を見て、しばらく黙っていた。
「帰ったら...また前みたいになるのかな」
彼の声は小さかった。
「どういう意味だ?」
「父さんはまた仕事に没頭して、俺はまた部屋に閉じこもって...」
真一は息子の言葉に胸が痛んだ。確かに、この異世界では二人の関係が少しずつ変わってきていた。ここでは真一は「大学教授」ではなく、ただの「父親」だった。
「そうはならない」
真一は静かに、しかし強い決意を込めて言った。
「この世界で学んだことを、帰ってからも忘れないよ。約束する」
健太はようやく父親の方を向き、小さくうなずいた。
翌日、エリザベスとソフィアの案内で、真一と健太はグレイソン伯爵の城へと向かった。道中、彼らは様々な風景を目にした。巨大な木々の間を抜け、キラキラと光る小川を渡り、不思議な形の岩の間を通り抜けた。
健太とソフィアは先頭を歩き、時折笑い声を上げている。真一とエリザベスはその後ろをゆっくりと歩いた。
「あの二人、本当に仲良くなりましたね」
エリザベスが微笑んだ。
「ええ。健太があんなに笑うのを見るのは、妻が亡くなって以来かもしれません」
「ソフィアも同じです。彼女の父親が...いなくなってから、笑顔を見せなくなっていました」
二人は並んで歩きながら、静かな会話を続けた。互いの喪失について、そして子どもたちの成長について。
「あなたがここに来たのは、偶然ではないのかもしれませんね」
エリザベスが言った。
「どういう意味ですか?」
「私たちが互いに必要としていたものを、お互いに与えることができたから」
真一はその言葉の意味を考えながら、前を歩く健太の背中を見つめた。確かに、この異世界での経験は、彼と健太に何かを教えてくれていた。
城に着くと、彼らはすぐにグレイソン伯爵の謁見室へと案内された。伯爵は厳めしい表情の中年男性だったが、話をするうちに意外と理解のある人物だとわかった。
「異世界からの訪問者とは珍しい」
伯爵は真一と健太を観察するように見た。
「私としては、あなた方がここにとどまることを望みますが...家族には帰るべき場所がありますからね」
伯爵の許可を得て、一行は翌日「星の橋」へ向かうことになった。
その夜、エリザベスの家で最後の夕食を共にした四人は、静かに別れの時を過ごした。健太とソフィアは別室で何やら話し込んでいる。
「明日、本当に帰れるんでしょうか」
真一は窓の外の星空を見ながら訊ねた。
「わからないわ。でも、試す価値はあるでしょう」
エリザベスは静かに答えた。
「もし...帰れなくても」
「その時は、またここに戻ってきてください。私たちがいますから」
彼女の言葉に、真一は温かさを感じた。この世界で、彼らは新たな絆を見つけていた。
翌朝、四人は「星の橋」へと向かった。それは山頂にある半円形の石造りの遺跡だった。朝靄の中、神秘的な雰囲気を漂わせている。
「ここが『星の橋』」
エリザベスが言った。
「門を開くには、私の力と...あなたたちの強い思いが必要です」
彼女は真一と健太を遺跡の中心に立たせ、自分は少し離れた場所に立った。
「心の中で、帰りたい場所を思い浮かべてください」
真一は目を閉じ、日本の自宅を思い浮かべた。しかし、それだけではなかった。明子との思い出、彼女の死、そして健太との疎遠になった日々...そして、このエーテルガルドでの新たな始まり。
エリザベスが呪文のような言葉を唱え始めると、遺跡の周りに青い光が満ちていった。風が強くなり、真一は本能的に健太の手を握った。息子は驚いたように父を見たが、手を離さなかった。
「父さん、もし帰れたら...」
健太が声を震わせながら言った。
「もう一度、ちゃんとやり直そう。一緒に」
真一は息子の言葉に、胸が熱くなるのを感じた。
「ああ、約束する」
青い光が二人を包み込み、耳鳴りのような音が頭の中で鳴り響いた。真一は最後に、エリザベスとソフィアの姿を見た。彼女たちは手を振っている。特にソフィアは、初めて会った時とは違う、明るい表情をしていた。
そして世界が回転し、意識が遠のいていった...
「...父さん!父さん!」
健太の声で、真一は目を覚ました。彼らは車の中にいた。峠道の脇に停まっている。事故を起こしたはずの場所だ。
「どうやら戻ってきたようだな」
真一はぼんやりと言った。頭がまだ混乱している。
「本当に戻ってきたんだね」
健太も信じられないという表情だった。
「あの世界は...夢だったのかな」
「いや」
真一はダッシュボードの上に置かれた小さな結晶に気がついた。エーテルガルドでソフィアが健太にくれたものだ。
「夢じゃない。本当に起きたことだ」
二人は車を修理し、再び走り出した。山を下り、街の明かりが見えてきた頃、健太が口を開いた。
「明日、久しぶりに母さんのお墓に行こうよ」
真一は驚いて息子を見た。彼らは明子の命日以外、ほとんどお墓参りをしていなかった。
「ああ、行こう」
彼は答え、そっと微笑んだ。窓の外を見ると、夕暮れの空に虹がかかっていた。まるで異世界からの贈り物のように。
異郷の星に架かる虹 すぎやま よういち @sugi7862147
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