異郷の星に架かる虹
すぎやま よういち
第1話 異世界への転移と混乱
高瀬真一は運転しながら、助手席で黙り込む息子の横顔を盗み見た。健太は窓の外を見つめ、イヤホンから漏れる音楽が車内の沈黙を強調している。この静寂に慣れるのに、真一は十年を要した。いや、慣れたわけではない。諦めたのだ。
「今日の講義はどうだった?」真一は何気なく問いかけた。健太からの返事は短い「別に」という言葉だけ。十七歳の息子との会話はいつもこうだった。言葉は減り、沈黙が増え、二人の間には見えない壁が築かれていった。
「そうか」と真一は頷き、再び前方に視線を戻した。山道は霧に包まれていた。明子が亡くなってからの十年間、こうして二人きりで車に乗ることもめったになかった。だが今日は特別だった。健太の進路相談のため、大学のオープンキャンパスに行く道中だったのだ。
高瀬家の日常は、十年前の雨の日に崩れた。文化人類学者として名を馳せていた真一は、フィールドワークから戻る途中の妻・明子が交通事故に遭ったという知らせを受けた。七歳だった健太の前で、真一は泣かなかった。強くあろうとした。だが、その仮面の下で彼の心は砕け散っていた。
真一は悲しみを学問に昇華させた。論文を書き、講演をこなし、フィールドワークに没頭した。一方で、成長する息子との時間は失われていった。真一は知らず知らずのうちに、家にいても不在の父親になっていた。
「この霧、すごいな」真一はもう一度会話を試みた。
健太はイヤホンを外すこともなく、「うん」と答えるだけだった。それでも真一は続けた。
「明日は雨かもしれないぞ。天気予報ではー」
その時だった。霧の向こうから突如として現れた暗い影。真一はハンドルを切ったが、タイヤは濡れた路面で滑り、車は制御を失った。健太の驚きの声と、真一自身の叫び声が車内に響き渡った。そして衝撃と共に、意識が遠のいていった。
真一が目を覚ましたとき、最初に感じたのは柔らかな草の感触だった。彼は混乱しながら上体を起こし、周囲を見回した。そこはどこか見知らぬ森の中だった。木々は日本の杉や檜ではなく、どこか異国の色彩を帯びていた。空は深い青色で、二つの月が浮かんでいた。
「健太!」真一は慌てて息子の名を呼んだ。返事はなかったが、数メートル先に横たわる健太の姿を見つけ、駆け寄った。
「健太、大丈夫か?」
健太はゆっくりと目を開き、父を見上げた。そして突然、周囲の異様な景色に気づき、飛び起きた。
「ここ...どこ?」健太の声は震えていた。事故の記憶が蘇り、混乱が彼を襲う。「車は?道路は?」
真一は答えられなかった。彼らがいるのは確かにもう日本ではない。文化人類学者としての彼の頭脳は瞬時に理解した—これは未知の場所、いや、未知の世界だった。
「わからない」と真一は正直に答えた。「だが、一緒にいれば大丈夫だ」
健太は苦笑いを浮かべた。「一緒?ここ何年も、僕たち本当に一緒にいたことあったっけ?」
その言葉に真一は答えることができなかった。健太の言葉には、十年分の孤独と怒りが込められていた。明子が死に、真一が心を閉ざし、健太が一人取り残されてきた十年の重みがあった。
「とにかく、ここが何処なのか調べないと」真一は話題を変え、立ち上がった。学者としての冷静さが彼を支えていた。「人里はないか、歩いてみよう」
健太は黙って立ち上がり、ポケットからスマートフォンを取り出した。「圏外だ」と彼は呟いた。「GPSも機能していない」
真一も自分のスマートフォンを確認した。同じく圏外だった。「節電のために電源を切っておこう。必要になるかもしれない」
二人は沈黙の中を歩き始めた。木々の間から差し込む光が幻想的な雰囲気を作り出している。鳥の鳴き声は聞き慣れないメロディを奏で、時折見かける小動物も地球上の既知の種とは明らかに異なっていた。
「これは夢なのか」健太が小さな声で言った。「それとも死後の世界?」
真一は頭を振った。「いや、私たちは生きている。これは...別の世界なのかもしれない」
「異世界?」健太は半ば嘲るように笑った。「オタク知識が役に立つ時が来たな」
真一は息子に驚いた表情を向けた。健太がアニメや漫画に興味を持っていることは知っていたが、彼の趣味について深く話し合ったことはなかった。それは二人の間の多くの未知の領域の一つだった。
歩くこと約一時間、彼らは小さな渓流に出た。水は澄んでおり、喉の渇きを癒すには十分だった。真一は持っていたハンカチを濡らし、顔を拭った。突然の状況変化に、彼の頭脳は冷静な分析を始めていた。これが異世界なら、ここでの生存方法と帰還手段を考えねばならない。
「見て」健太が水面を指さした。水中には小さな光る魚が泳いでいた。その鱗は虹色に輝き、夜光虫のように淡い光を放っていた。「これ、地球にはない種だよ」
「ああ」真一は頷いた。「生物学的には非常に興味深いね」
健太は顔を上げ、父を見た。かつて父の仕事に興味を持っていた頃の表情が一瞬だけ戻った。しかし、すぐに無表情に戻る。「先に進もう」
彼らが渓流沿いに歩き始めたとき、木々の間から人影が現れた。真一は本能的に健太の前に立ち、警戒の姿勢を取った。
「怖がらないで」優しい声が響いた。「あなたたちを傷つけるつもりはありません」
現れたのは十代半ばほどに見える少年だった。しかし、その青緑色の目は古い知恵を宿しているかのように深く、銀色の髪は風もないのに揺れていた。少年は素朴な服を着て、首には奇妙な結晶のペンダントをかけていた。
「私はリオネル。この森の番人です」少年は微笑みながら言った。「あなたたちは異郷からの旅人ですね」
真一は言葉を選びながら応えた。「私は高瀬真一、こちらは息子の健太だ。私たちはどこにいるのだろう?」
「ここはエーテルガルド」リオネルは答えた。「魔法と理性が共存する世界です」
「魔法?」健太は半信半疑の表情で問いかけた。
リオネルは微笑み、手のひらを開いた。すると、そこから淡い光が放たれ、空中で小さな光の渦となって舞い始めた。健太は息を呑み、真一も目を見開いた。
「信じがたいことは承知しています」リオネルは光を消しながら言った。「でも、あなたたちは最初の異郷人ではありません」
「他にも私たちのような者がいるのか?」真一は興味を示した。
「いました」リオネルの表情が曇る。「長い歴史の中で何人かの異郷人がこの地に訪れましたが...」
「彼らはどうなった?」健太が尋ねた。
リオネルはしばらく二人を見つめ、決断したように頷いた。「来てください。私の住処でお話しましょう。この森は夜になると危険な生き物が出てきます」
真一と健太は互いに視線を交わした。選択肢は限られていた。彼らはリオネルについていくことにした。
森の奥へと進むにつれ、木々は一層巨大になり、その枝は複雑に絡み合って自然のアーチを形成していた。日が傾き始め、リオネルのペンダントが淡く光を放ち始めた。それは彼らの行く手を照らす松明のようだった。
「ここだ」リオネルは巨大な樹の前で立ち止まった。
その樹は他のどの木よりも太く、高く、樹皮には奇妙な模様が刻まれていた。リオネルがその模様に触れると、樹の幹が開き、内部への道が現れた。
健太は驚きの声を上げた。「マジか...」
真一も同じく驚いていたが、学者としての好奇心が彼を支えていた。彼らは樹の中へと足を踏み入れた。内部は予想以上に広く、居住空間として整えられていた。暖かな光が壁から発せられ、シンプルながらも快適な家具が配置されていた。
「座ってください」リオネルは二つの椅子を指さした。「お腹が空いているでしょう」
彼は小さな棚から果物や乾燥肉、パンのようなものを取り出し、テーブルに並べた。真一と健太は遠慮がちにそれらを口にした。味は地球の食べ物とは異なっていたが、不思議と美味しかった。
食事をしながら、リオネルは話し始めた。「エーテルガルドは多くの世界と繋がっています。時折、他の世界から人がやってくることがあります。あなたたちのように」
「他の世界から来た人々は、元の世界に戻ることができたのか?」真一が核心を突く質問をした。
リオネルの表情が複雑になった。「可能性はあります。しかし、それには条件があります」
「どんな条件だ?」健太が身を乗り出して尋ねた。
「それを説明するには、まずエーテルガルドについて知ってもらう必要があります」リオネルは立ち上がり、壁に掛けられた地図のような布を指した。「ここは魔法の力『エーテル』によって支えられている世界です。エーテルの流れが最も強い場所が『門』となり、そこから異世界への通路が開くことがあります」
真一は思考を巡らせながら聞いていた。もしこれが本当なら、彼らは車の事故の瞬間に、そのような「門」を通過したのかもしれない。
「では、私たちが元の世界に戻るには、そのような『門』を見つければいいのか?」
リオネルは首を振った。「それだけでは不十分です。門は不安定で、特定の条件が揃わないと開きません。また、開いたとしても、どの世界に繋がるかはわかりません」
「じゃあ、僕たちは閉じ込められているのか」健太の声には絶望が滲んでいた。
「希望はあります」リオネルは静かに言った。「エーテルガルドの伝説によれば、『絆の結晶』というものがあります。それは強い絆を持つ者たちの思いが具現化したもので、門の方向性を定める力があるとされています」
「絆の結晶?」真一は眉を寄せた。「それはどこにあるのだ?」
「それが問題です」リオネルは肩をすくめた。「絆の結晶は探すものではなく、生み出すものなのです」
健太は苦笑した。「何だそれ。謎かけか?」
リオネルは真剣な表情で二人を見た。「異郷人が自分の世界に戻るには、この世界で真の絆を見つけなければならないのです。それは家族の絆かもしれないし、新たな友情や愛かもしれません。その絆が強ければ強いほど、元の世界への道は明確になります」
真一と健太は言葉を失った。彼らに足りないのはまさに「絆」だった。十年の時を経て、二人の間には断絶しか残っていなかった。
「時間はあります」リオネルは優しく続けた。「明日、あなたたちを最寄りの村に案内します。そこで必要なものを調達し、この世界について学ぶことができるでしょう」
その夜、真一と健太はリオネルの家の別々のスペースで眠りについた。健太は疲労から早々に寝息を立て始めたが、真一は眠れなかった。窓から見える二つの月を見上げながら、彼は考えていた。
彼と健太の絆は修復できるのだろうか。明子が生きていれば、こんな状況にはならなかっただろう。彼女はいつも家族の中心だった。彼女がいなくなり、真一は家族を守るという役割に失敗した。
今、異世界に閉じ込められた彼らにとって、互いは唯一の頼りだった。しかし、その関係は既に崩壊していた。真一は息子の顔を見つめた。眠っている健太は、まだあの七歳の子どものように見えた。父親の腕の中で安心して眠っていた、あの日々のように。
「明子...」真一は亡き妻の名を呟いた。「私は何をすべきなんだ...」
夜は静かに過ぎていき、異世界の朝が訪れようとしていた。
朝の光が木々の間から差し込み、真一の目を覚ました。一瞬、彼はどこにいるのか混乱したが、すぐに昨日の出来事を思い出した。現実ではないと願った記憶が、確かな現実として彼の前に立ちはだかっていた。
健太はすでに起きており、リオネルと何かを話していた。真一が近づくと、二人の会話は途切れた。
「おはよう、お父さん」健太の口調は昨日よりも柔らかかった。異世界という非日常が、彼らの間の壁を少し低くしたのかもしれない。
「おはよう」真一は応え、リオネルにも会釈した。「今日は村に行くのだな」
「はい」リオネルは頷いた。「準備はできていますか?道のりは短くありません」
真一は自分の服装を見た。スーツの上着は脱ぎ、ワイシャツの袖をまくり上げていた。健太もジャケットを脱ぎ、Tシャツ姿になっていた。二人とも昨日の事故から身につけていた服のままだった。
「これしかないが」真一は苦笑した。
リオネルは理解を示し、小さな袋を二人に手渡した。「道中の食料です。それでは出発しましょう」
三人は樹の家を出て、森の中を歩き始めた。リオネルは先頭に立ち、真一と健太はその後に続いた。朝の森は活気に満ち、様々な生き物の音が聞こえてきた。
「リオネル」健太が声をかけた。「昨日は聞けなかったけど、君はこの森の番人って言ったよね。それって何をするの?」
リオネルは歩きながら答えた。「森のエーテルの流れを監視し、均衡を保つのが私の役目です。エーテルは生命の源であり、同時に危険も孕んでいます。乱れると、時に災いを招くことがあります」
「あなたは人間ではないのですね」真一が静かに言った。それは質問というより確認だった。
リオネルは振り返り、微笑んだ。「鋭い観察力ですね。その通り、私は精霊です。この森と共に生まれ、森と共に生きています」
「精霊」健太はその言葉を反芻した。「日本の神話にも似たような存在があるよ」
「世界は違えど、魂の性質は似ているのかもしれませんね」リオネルは答えた。
彼らは森の中をさらに数時間歩き続けた。リオネルは時折立ち止まり、特定の植物や動物について説明した。真一はその全てを貪欲に吸収していった。文化人類学者としての彼の知識欲が刺激されていた。
「あなたは学者なのですね」リオネルが言った。
「ああ、文化人類学だ」真一は答えた。「様々な文化や社会を研究している」
「それは素晴らしい」リオネルは目を輝かせた。「もしかしたら、あなたの知識がエーテルガルドでも役に立つかもしれません」
健太は父親の横顔を見た。そこには誇らしげな表情が浮かんでいた。かつて健太は父の仕事を尊敬していた。小さい頃、父が世界各地のフィールドワークから持ち帰る話に夢中になっていた。それはいつの間にか変わってしまった。母の死後、父は仕事に逃げ込み、健太との会話は減っていった。
「森の終わりが見えてきました」リオネルが言った。
彼らは木々の間から開けた場所に出た。そこからは緩やかな丘が続き、その向こうに小さな村が見えた。石造りの家々が集まり、中央には塔のような建物があった。周囲には畑が広がり、人々が働いている姿も見えた。
「アルディア村です」リオネルは説明した。「エーテルガルドの小さな村ですが、親切な人々が住んでいます」
彼らが村に近づくにつれ、村人たちは彼らに気づき始めた。作業の手を止め、好奇心を持った視線を送っていた。真一と健太の服装は明らかに彼らとは異なっていた。
村の入り口で、一人の老人が彼らを迎えた。白い髭を蓄え、杖を持っていたが、その姿勢は堂々としていた。
「リオネル、また村を訪れてくれたか」老人は精霊の少年に微笑みかけた。「そして、これらの人々は?」
「長老、彼らは異郷からの旅人です」リオネルは説明した。「高瀬真一と、息子の健太です」
「異郷からですか」長老は驚いた様子で二人を見た。「久しぶりのことです。ようこそ、アルディア村へ」
真一は丁寧に頭を下げた。「お迎えいただき感謝します」
長老は二人を村の中心へと案内した。村人たちが集まってきて、好奇の目で彼らを見つめていた。子どもたちは特に興味津々で、健太の周りを取り囲み、彼の服や持ち物を珍しそうに見ていた。
「皆さん、彼らは遠い世界からの客人です」長老は村人たちに告げた。「私たちの習わしに従い、温かく迎えましょう」
村人たちは歓迎の言葉を述べ、中には食べ物や飲み物を差し出す者もいた。真一と健太は圧倒されながらも、その親切に感謝した。
「まずは休息を取り、それから話をしましょう」長老は言った。「村の宿で休めるよう手配します」
彼らは村の小さな宿に案内された。それは石と木で作られた二階建ての建物で、内部は質素ながらも清潔だった。真一と健太は一つの部屋を与えられた。
「この村では客人をもてなすのが伝統です」宿の主人の女性が説明した。「特に異郷からの方々は貴重な存在です」
部屋に二人きりになったとき、健太は窓から村の景色を眺めていた。「信じられないな、これが現実だなんて」
真一も同じ思いだった。「私たちが本当に異世界にいるのなら、帰る方法を見つけなければならない」
「リオネルの言った『絆の結晶』のことかい?」健太は振り返った。「そんなの本当にあるのか?」
「わからない」真一は正直に答えた。「だが、他に手がかりはない」
健太は長いため息をついた。「僕たち、絆なんてとっくに失ってるじゃないか」
その言葉は真一の胸に突き刺さった。健太の言う通りだった。彼らは長い間、同じ屋根の下で生活していながら、別々の世界に生きていた。
「今からでも、やり直せないだろうか」真一は慎重に言葉を選んだ。
健太は無言で肩をすくめた。それは肯定でも否定でもなかった。二人の間に再び沈黙が訪れた。
その夜、彼らは村の広場で行われる歓迎の集いに招かれた。炎が燃える中央の火を囲んで、村人たちが集まっていた。音楽が演奏され、踊りが披露された。真一と健太は客人として特別な席に案内された。
「異郷からの旅人たちよ」長老が声を上げた。「あなたたちの旅が無事であることを願い、この宴を開きます」
村人たちは歓声を上げ、宴が始まった。料理が振る舞われ、酒が注がれた。真一は異世界の食文化に興味を持ち、様々な料理を試した。健太も警戒心を解き、村の若者たちと会話を始めていた。
宴の途中、長老が真一に近づいてきた。「異郷の方、少しお話してもよろしいでしょうか」
真一は頷き、長老と少し離れた場所に移動した。
「リオネルから事情は聞いています」長老は静かに言った。「あなたたちが元の世界に戻りたいと願っていることを」
「はい」真一は答えた。「可能であれば」
「絆の結晶について聞いたそうですね」長老は続けた。「それは単なる伝説ではありません。過去に、それを使って帰還した異郷人がいました」
真一の目が輝いた。「本当ですか?」
長老は頷いた。「しかし、その道のりは容易ではありません。絆の結晶は、魂の深い結びつきからのみ生まれます。それは試練の中でこそ育まれるもの」
「試練とは?」
「それは人によって異なります」長老は言った。「あなたとあなたの息子には、あなたたち自身の試練があるでしょう」
真一は健太の方を見た。彼は村の若者たちと笑顔で話していた。久しく見ていない表情だった。
「私たちは...距離があります」真一は認めた。
「気付いているのならば、希望はあります」長老は微笑んだ。「明日、私の家に来てください。あなたたちの旅に役立つものがあります」
宴は夜遅くまで続いた。真一と健太は別々の場所で村人たちと交流していたが、時折視線が合うことがあった。そんな時、二人は小さく頷き合った。それは小さな変化だったが、何かの始まりのようにも思えた。
宿に戻る道で、健太が口を開いた。「村の人たちは親切だね」
「ああ」真一は答えた。「異文化に対する寛容さは、世界を超えても変わらないのかもしれない」
「お父さんは楽しそうだった」健太は続けた。「フィールドワークしてる時みたいに」
真一は驚いて息子を見た。健太が彼の仕事の様子を覚えていることに感動を覚えた。
「君はどうだった?」真一は尋ねた。
「悪くなかった」健太は素直に答えた。「皆、僕のこと、いろいろ聞いてきた。日本のこととか...」
二人は宿に着き、部屋に戻った。明日からの行動について話し合おうとしたが、疲れがどっと押し寄せ、すぐに眠りについた。
真一は夢の中で明子に会った。彼女は笑顔で健太と真一を見つめていた。「あなたたち、ちゃんと話してる?」という明子の声が聞こえた気がした。真一が手を伸ばそうとした瞬間、夢は霧のように消えていった。
翌朝、真一と健太は村の長老の家を訪ねた。それは村の中央に近い、石造りの質素な建物だった。しかし、内部に入ると、壁には古い書物や奇妙な道具が並び、学者の真一の好奇心を刺激した。
「よく来てくれました」長老は二人を迎え入れた。「座ってください」
中央に置かれたテーブルに三人が座ると、長老は古い羊皮紙を広げた。それはエーテルガルドの地図のようだった。
「あなたたちが帰還するためには、『星降りの谷』に行く必要があります」長老は地図上の一点を指さした。「そこは世界の境界が最も薄い場所。エーテルの流れが強く、門が開きやすいのです」
「星降りの谷…」真一はその名を繰り返した。「遠いのですか?」
「徒歩で一週間ほど」長老は答えた。「しかし、その道のりには危険もあります。『影の森』を通らねばならず、そこには不穏な存在が潜んでいるとされています」
健太が身を乗り出した。「どんな危険なんですか?」
「古来より、影の森は迷いの森と呼ばれています」長老の表情が暗く沈んだ。「人の心に潜む闇を引き出し、道を見失わせるのです」
真一は考え込んだ。心の闇—それは彼自身も抱えているものだった。妻を失った悲しみ、息子との関係の壊れ…
「私たちは行かなければならない」真一は決意を示した。「それが唯一の帰還手段であれば」
「その前に」長老は立ち上がり、棚から小さな木箱を取り出した。「これを持っていってください」
箱の中には、水晶のようなペンダントと、小さな巻物が入っていた。
「このペンダントは『導きの石』と呼ばれるもの」長老は説明した。「エーテルの流れを感じ取り、方向を示してくれます。そして巻物には、門を開くための古い呪文が記されています」
真一はペンダントを手に取った。それは冷たく、僅かに脈動しているようだった。
「もし私たちが『絆の結晶』を見つけたら、この呪文でゲートを開けるのですね」真一は確認した。
長老は頷いた。「そうです。しかし忘れないでください。絆の結晶は形のあるものではなく、あなたたち自身の中に生まれるものです。真の絆が結ばれたとき、あなたたちの心の中に現れるのです」
健太は眉をひそめた。「でも、どうやって分かるんですか?それが生まれたって」
「分かります」長老は静かに笑った。「心が満たされ、もう疑いや恐れがなくなったとき、それが現れるのです」
真一と健太は互いを見た。二人の間には、まだ多くの言葉にできない感情があった。それを乗り越え、真の絆を取り戻すことができるのだろうか。
「出発する前に」長老は続けた。「あなたたちには村の生活に慣れ、必要なものを準備する時間が必要です。数日は村に滞在し、この世界について学んでください」
真一はありがたく提案を受け入れた。確かに、異世界の知識なしに冒険に出ることは危険だった。
「そのお言葉に甘えます」真一は礼を述べた。「村の文化や習慣についても学びたいと思います」
長老は満足そうに頷いた。「文化人類学者としての視点は、私たちにとっても価値あるものです。互いに学び合いましょう」
健太は父親の表情を見ていた。久しぶりに真一の目に輝きを見た気がした。それは、母が亡くなる前の、熱心に研究に取り組んでいた頃の父親の姿を彷彿とさせた。
「健太君」長老が彼に向き直った。「村の若者たちがあなたを誘っています。エーテルガルドの青年の生活を体験してみませんか?」
健太は少し迷ったが、頷いた。「ありがとうございます」
「では、私たちはここで別れましょう」長老は言った。「真一さんは私と村の歴史について語り合い、健太君は若者たちと過ごす。夕食時に再会しましょう」
こうして、真一と健太は初めてエーテルガルドでの別行動を取ることになった。
健太は村の若者たちとの時間を意外なほど楽しんでいた。彼らの生活は単純だが、喜びと活気に満ちていた。農作業を手伝い、狩りの基本を学び、夕食の準備をする—それは健太にとって全く新しい経験だった。
「地球とは違うな」健太は畑で働きながら、隣にいた同年代の少年トームに話しかけた。「もっと…つながりがある気がする」
「つながり?」トームは不思議そうに尋ねた。
「うん、自然と人間の」健太は説明した。「地球では、特に都市部では、自然と切り離された生活をしている」
「それは不思議だね」トームは首を傾げた。「エーテルの流れを感じることができないのか?」
健太はその言葉に考え込んだ。確かに、この世界では自然の一部として生きることの重要性を皆が理解しているようだった。地球ではそれが忘れられつつあるのかもしれない。
一方、真一は長老との対話に没頭していた。エーテルガルドの歴史、文化、魔法体系—すべてが彼の学術的関心を引きつけた。
「魔法は科学と対立するものではなく、この世界では共存しているのですね」真一は感心した。
「そうです」長老は頷いた。「エーテルは自然の法則の一部。それを理解し、活用するのが私たちの文化です」
真一は自分のノートに熱心にメモを取っていた。スマートフォンの電源は切っていたが、紙とペンは持っていた。文化人類学者としての習慣が、この状況でも彼を支えていた。
「あなたの世界では、家族はどのような形を取っていますか?」長老が尋ねた。
その質問に、真一の手が止まった。「多様です」彼は慎重に答えた。「伝統的な形もあれば、新しい形も…私自身は、妻を亡くし、息子と二人で暮らしています」
「それは辛いことでしょう」長老は共感を示した。「私たちの文化では、喪失を乗り越えるには、その痛みを認め、共有することが大切だと考えています」
真一は静かに頷いた。彼は明子の死後、痛みを内に閉じ込めていた。それを健太と共有することを避けていた。それが、二人の間の溝を深めた原因の一つだったのかもしれない。
「息子さんとは、妻の死について話されましたか?」長老の問いは優しかったが、鋭かった。
真一は頭を振った。「いいえ、あまり…」
「時に、言葉にしないことが最大の壁を作ります」長老は言った。「特に愛する者との間に」
その言葉は真一の心に響いた。彼は自分が何年もの間、心の壁を築き上げてきたことを痛感した。
夕食時、真一と健太は村の広場で再会した。健太の頬は日焼けして赤く、服は土で汚れていたが、その表情は生き生きとしていた。
「どうだった?」真一は尋ねた。
「すごく楽しかった」健太は率直に答えた。「トームたちと畑仕事して、それから川で魚を取って…」
真一は息子の興奮した様子に微笑んだ。「良かった」
「お父さんは?」健太は珍しく父の様子を気にかけた。
「長老から多くのことを学んだよ」真一は応えた。「この世界の文化は実に興味深い」
二人は村人たちと共に食事をし、夜が更けるまで談笑した。それは長い間なかった、平和な時間だった。
宿に戻る道で、健太が突然口を開いた。「お母さんのこと、考えてた」
真一は息子を見た。健太は空の二つの月を見上げていた。
「トームが家族の話をしてて…」健太は続けた。「お母さんの顔、少し思い出せなくなってることに気づいたんだ」
真一の胸が痛んだ。「写真があるから…」
「写真じゃなくて」健太は首を振った。「記憶の中の、生きてる感じのお母さんが…」
真一は息子の横顔を見つめた。月の光に照らされたその姿は、明子に似ていた。
「私も時々、彼女の声が聞こえなくなることがある」真一は静かに認めた。「怖くなる」
健太は驚いたように父を見た。「怖い?」
「ああ」真一は頷いた。「彼女を忘れてしまうことが、彼女を二度失うことのように思えて」
二人は沈黙の中を歩いた。それは重い沈黙ではなく、何か共有されたものがある静けさだった。
「お父さん」健太が宿の前で立ち止まった。「お母さんの話、もっと聞かせてよ。俺が小さかった頃のこととか」
真一は息子の目を見た。そこには純粋な願いがあった。
「ああ」真一は頷いた。「いつでも」
その夜、真一は久しぶりに明子との思い出を語った。彼らが出会った大学時代のこと、健太が生まれたときの喜び、三人で過ごした休日の思い出。健太は黙って聞いていたが、時折質問をした。それは小さな一歩だったが、二人の間の氷が少しずつ溶け始めているようだった。
次の数日間、真一と健太はエーテルガルドの生活に順応していった。真一は村の学者たちと知識を交換し、健太は若者たちと技術を学んだ。彼らは村人から提供された衣服に着替え、地元の食事に慣れた。
出発の前日、リオネルが村を訪れた。「準備はできていますか?」彼は二人に尋ねた。
真一は頷いた。「村の人々の助けで、必要なものはすべて揃いました」
「明日、星降りの谷に向けて出発します」リオネルは言った。「私も同行します」
その夜、村人たちは彼らのために送別の宴を開いた。歌と踊りで彼らの旅の安全を祈り、贈り物が渡された。真一と健太は心からの感謝を伝えた。
「星降りの谷への道のりは厳しいでしょう」長老は別れ際に言った。「しかし、それはあなたたちの絆を試し、強める機会でもあります」
真一と健太は互いを見た。この数日間で、彼らの関係はわずかに改善していた。しかし、十年の断絶を埋めるには、まだ多くの時間と努力が必要だった。
「準備は整いました」真一は決意を新たにした。「明日、出発します」
「エーテルの流れがあなたたちを導きますように」長老は祈るように言った。
夜、真一は再び明子の夢を見た。彼女は微笑み、何かを言おうとしていたが、声は届かなかった。目覚めたとき、彼の頬は涙で濡れていた。
朝、真一と健太はわずかな荷物をまとめ、村の入り口に集まった。リオネルはすでにそこで待っており、長老と村人たちが見送りに来ていた。
「お礼を言います」真一は皆に向かって頭を下げた。「あなたたちの親切に、心から感謝しています」
「無事に帰還できることを祈っています」長老は言った。「そして、それが叶わなくとも、あなたたちがここで新しい人生を見つけることができますように」
トームは健太に近づき、手を差し出した。「また会えるかな?」
健太は彼の手を握り、頷いた。「きっと」
長老は最後に真一に近づき、小さな声で言った。「忘れないでください。絆の結晶は、二人の心が真に通じ合ったときに現れます。それは形のあるものではなく、感じるものです」
真一は深く頷いた。「ありがとうございます。あなたの知恵を心に留めます」
こうして、真一と健太、そしてリオネルの三人は、未知の冒険へと旅立った。村を後にし、彼らは星降りの谷を目指して歩き始めた。前方には広大な平原が広がり、その向こうには暗い森が見えた。
「あれが影の森です」リオネルは説明した。「私たちが最初に越えなければならない障害です」
真一は息子を見た。健太は決意に満ちた表情で前を見つめていた。
「行こう」真一は言った。「一緒に」
健太は頷き、二人は影の森へと足を踏み入れる準備を始めた。彼らの旅は、ようやく本格的に始まったのだった。
平原を越えるのに半日かかった。太陽が頭上を通り過ぎ、西に傾き始めるころ、三人は影の森の入り口に立っていた。森は不気味なほど静かで、巨大な木々が陽光を遮り、内部は薄暗かった。
「ここから先は注意が必要です」リオネルは警告した。「影の森は人の心に働きかけ、恐怖や不安を増幅させると言われています」
真一は長老から受け取った導きの石を取り出した。それは彼の手の中で微かに脈動し、淡い光を放っていた。
「この石が私たちを導いてくれるのだな」真一は確認した。
「はい」リオネルは頷いた。「しかし、最も重要なのは互いを見失わないことです。森の中では、幻影や錯覚に惑わされることがあります」
健太はさすがに緊張した様子で、口調が硬くなっていた。「具体的にどんな危険があるの?」
リオネルは森の入り口を見つめながら答えた。「人によって異なります。あなたの内なる不安や恐れが形を取るのです。しかし、それは幻に過ぎません。真実を見抜く目を持てば、乗り越えられるでしょう」
真一は健太の肩に手を置いた。「一緒にいれば大丈夫だ」
健太は父の手を見たが、振り払うことはしなかった。僅かな進歩だった。
「日が暮れる前に、少し進みましょう」リオネルは提案した。「森の中には安全な宿営地があります」
彼らは森に足を踏み入れた。一歩踏み込むと、外界の音が遮断されたかのように感じられた。鳥の声も風の音も聞こえず、ただ彼らの足音だけが響いていた。
道は次第に狭くなり、枝が絡み合って頭上を覆っていた。真一は導きの石を前に掲げ、その光に導かれながら前進した。健太は彼の後ろに続き、リオネルが最後尾を守った。
「この森は昔から存在している」リオネルは話し始めた。静寂を破る声が、不思議と安心感をもたらした。「エーテルの流れが乱れ、負の感情が溜まる場所です。しかし、恐れるべきものではありません。むしろ、自分自身と向き合う機会と考えるべきでしょう」
「自分自身と」真一は呟いた。彼には向き合いたくない過去があった。明子の死後、彼は自分の感情を封印し、仕事に没頭することで悲しみから逃げていた。その代償として、息子との関係を失ったのだ。
森の中を一時間ほど歩いたとき、リオネルが立ち止まった。「ここで一晩過ごしましょう」
彼らが到着したのは、わずかに開けた空間だった。周囲の木々は円を描くように立ち、中央には丸い石が配置されていた。
「これは旅人の休憩所」リオネルは説明した。「古来より、この森を通る者たちの安全な避難場所です」
リオネルの指示に従い、彼らは石の円の中に荷物を下ろした。真一は火を起こし、健太は水筒から水を注いで飲み物を準備した。三人は持参した食料を分け合った。
「お父さん」健太が突然言った。「俺、さっきから何か声が聞こえる気がする」
真一は息子を見た。「声?」
「うん…」健太は不安そうに周囲を見回した。「誰かが俺の名前を呼んでる気がして」
リオネルは静かに説明した。「それは森の効果です。心の中の声が聞こえやすくなるのです」
「怖くないよ」真一は息子を安心させようとした。「リオネルが言ったように、それは幻に過ぎない」
「でも、はっきり聞こえるんだ」健太の声が震えた。「お母さんの声みたいで…」
真一は息子の言葉に凍りついた。「明子の…?」
健太は頷いた。「でも、それはありえないよね。単なる幻想だよね」
真一は答えられなかった。彼自身、明子の声を聞いたわけではなかったが、彼女の存在を強く感じていた。それは森の効果なのか、それとも何か別のものなのか。
「健太」真一は慎重に言葉を選んだ。「もし…もし明子が何か伝えようとしているなら、それは聞く価値があるかもしれない」
健太は驚いた顔で父を見た。「お父さん…?」
「私は科学者だ」真一は言った。「しかし、この世界に来て、私たちの知らない力があることを実感している。だから、可能性を排除すべきではないと思う」
健太は黙って頷いた。彼らはしばらく沈黙の中で食事を続けた。
夜が更けると、リオネルは最初の見張りを買って出た。真一と健太は寝袋に入り、星が見える小さな空間を見上げた。
「お父さん」健太は横になりながら呼びかけた。「怖くないの?」
「怖いさ」真一は正直に答えた。「でも、怖さを認めることで、それに対処できるようになる。それが私の信条だ」
「お父さんが怖がるなんて」健太は小さく笑った。「信じられない」
「誰でも怖れを抱くものだよ」真一は言った。「私はただ、それを見せないようにしていただけかもしれない」
「お母さんが死んだとき、お父さんは泣かなかった」健太が突然言った。「俺は泣いたのに」
真一は息子の言葉に心を痛めた。「泣かなかったわけではない。ただ、君の前では強くあろうとした。それが間違っていたかもしれないけれど」
健太は長い間黙っていたが、やがて小さな声で言った。「俺、お父さんが怖かった。いつも遠くにいて、近づけなくて」
真一は息子の方を向いた。「健太、私は…」
しかし、健太はすでに目を閉じ、寝息を立て始めていた。あるいは、会話から逃げるためのふりかもしれなかった。
真一は星空を見上げながら考えた。彼は長い間、自分の感情を抑え込み、息子との間に壁を作ってきた。その壁を壊すことはできるのだろうか。
「明子…」彼は心の中で呼びかけた。「私たちを導いてくれ」
そして、彼は不思議な安心感を覚えながら、静かに目を閉じた。
影の森の中で、彼らの旅は新たな局面に入ろうとしていた。
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