A:狗藤忍Ⅱ


 狗藤忍にとって、神の存在は絶対だった。

 神を怖れ、天罰を怖れる。この場合の神はカノンのような一柱ではなく、全体的なイメージとしてとらえている。狗藤は決して信心深いわけではない。ただ、臆病者であるせいで、「神を怖れる」ことに関して、狗藤は秀でていた。


 だから、比企田教授に関しては、【弁天鍵】を私利私欲で使ったために天罰を受けた、と頭から信じている。

 さて、今回、狗藤は普通では味わえない体験をしたわけだが、その後の彼に何らかの変化はあったのだろうか?


 結論から言うと、なかった。ナッシング。まったく、以前のままである。

 狗藤は【弁天鍵】を使って、120億円という大金を受け取り、全国民に分散した。しかし、一万円どころか一円たりとも自分のポケットには入れなかった。もっとも厳密に言えば、狗藤も国民の一人なので、彼も100円を受け取ったわけだが。


 それを真摯な行為と見るかバカ正直とみるか、人それぞれだろうが、弁財天をはじめとする神々の覚えがよかったといえるかもしれない。

 狗藤は相変わらず、貧乏学生である。月末には食パンで飢えをしのぐという生活は、当分かえられそうもない。


 下僕体質も健在である。ベティが行方をくらませたせいか、昏睡状態だった黒之原の意識は回復した。黒之原は退院後、よほど時間を持て余しているのか、狗藤に何度も繰り返し電話をかけてくる。たかりやパシリを断るにも、ひと苦労である。


 ところで、狗藤は今回の一件で、少しは成長したのだろうか?


 ある時、狗藤がカノンにこう言った。

「カノンさん、“カネは天下の回りもの”っていうけれど、あれは本当だね。おカネって稼ぐものでも儲けるものじゃなくて、本当はみんなで回すものなんだね」

 それは偶然にも、ある有名投資家の言葉と同じだった。


 カノンは一瞬驚いた顔をしたが、苦笑しながら頷いた。

「うん、それは正しいで。回す時に、良い流れにのせたら、完璧や」

 世の中には、まだ多くの悪いカネの奔流がある。何度も分岐して見つけづらいし、途中から良い流れに変わったり組みこまれたりしているから、性質が悪い。


 ただ見つけて破壊すればそれで済む、という単純なものではない。本来、経済の問題に、絶対的な正解などないのだ。経済とは、メリットとデメリットをうまく組み合わせて、どうすれば、より良い社会を作っていけるか、そういった世界一難しい問題である。


 悪いカネの流れが消え去ることなど、永遠にないかもしれない。永遠に解決できなくとも、何ら不思議ではない。だから、弁財天の仕事は終わらない。おそらく、この世の中が終わるまで永遠に続くだろう。


 世界各地では相変わらず、経済問題が発生している。神々の欲望も始末が悪いが、人間の欲望はさらに節操がない。一握りの特権階級が世界の全資産をほぼ独占しているし、それ以外の99.9%はおこぼれにあやかろうと、醜い争いに終始している。


 救いとなるのは、狗藤のようなタイプだ。人間だから、もちろん金銭欲はあるのだが、カネとまったく縁がなく、過度に神を恐れる習性をもつ。基本的に善人だ。

 狗藤のようなタイプは、人類の歴史の分岐点で、神々の下僕として大きな役割を果たしてきた。彼自身は理解していないが、これだけは断言できるはずだ。


 狗藤のおかげで、日本経済の危機は回避することができた、と。


「カノンさん、ひとつ訊いていいかな」

 キャンパスの噴水広場で、カノンは狗藤に訊ねられた。なぜか、狗藤は顔に盛大な青あざをつくっている。カツアゲでもされたのだろうか?


「コンビニの店員さんに、つり銭間違いをされたんだ。さっき気づいたんだけど、五百円玉と百円玉を間違えられて、400円も足りない。あの店員さん、あくびばかりして、まるでやる気なかったしな」

「だから、何なんや。足りないんなら、ゴチャゴチャ言うとらんで、さっさとコンビニに行ってこいや」


「いや、だって証拠がないしさ。その時に言わないと、嘘だと思われてしまうよ」

「おい、まさかと思うけど、400円のために、【弁天鍵】を使ってもいいかな? なんてバカな質問はするんやないで」


「はは、まさか、そんな質問はしないよ。でも正直いって、どうなんだろう。ほんの400円なんだけど、これも〈私利私欲〉に入るのかな? もし、〈天罰〉を受けるのなら諦めるけど……。ねぇ、カノンさん、どうなの?」


 あっけらかんと訊ねてくる。カノンは呆れかえった。前言撤回だ。この下僕は全然成長していない。次の瞬間、カノンの右脚は勢いよく跳ね上がり、狗藤の左側頭部をきれいにとらえた。


 ……かと思われたのだが、それは残像が見せた幻にすぎない。狗藤は最小限の動きによって、紙一重で避けていた。

 まさかの空振りである。カノンは信じられない、といった表情を浮かべていた。対する狗藤は、してやったり、と得意げな表情だ。


「へへーっ、プロレス同好会に一日入門して、鳩山先輩と猛練習をした甲斐があったよ」

 どうやら、顔にできた盛大な青あざは、その名残らしい。


 狗藤の表情は相変わらず、犬に似ている。ただ、以前のようなペット犬ではなく、独立心が少しだけ垣間見える野良犬のように見えた。



                  了



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弁財天の犬とクロガネ遣い 坂本 光陽 @GLSFLS23

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