B:〈クロガネ遣い〉Ⅱ


 比企田正樹の人生は、16年前にベティと出会ってから一変した。


【弁天鍵】を託されて、億単位の大金を手に入れたことは、間違いなく大きな転機となったのだ。ベティに厳命されていたので、こまめなカネの移動と分散は決して忘れなかった。それが〈クロガネ・システム〉の基本だったし、神々に気取られることを防ぐためでもあった。


 手に入れた大金を元手にして、有力者とのコネクションを広げた。整った身なり、柔和な笑顔、巧みなトークといった対人スキルも身につけた。


 大金を持つ者には、それに相応しい器が求められる。必要にかられて、社会的地位も確保することにした。啓杏大学にもぐりこみ、〈聡明な大学教授〉というキャラクターを手に入れることは、思いのほか簡単だった。


 比企田は決して、私利私欲から、クロガネ(ブラックマネー)の巨大な環流システムを作ったわけではない。一定の金額を超えてしまえば、不思議なことに、カネはただの道具になってしまう。大金は富であると同時に、ストレスをもたらす存在だ。それゆえに、無心、無欲でいられた。


 ベティからこんなレクチャーを受けた。

「明らかな犯意がない以上、弁財天のルール上では、グレーゾーンに該当するの。神々が断罪するには、少なからず難があるのよ」

「疑わしきは罰せず、というわけですか」


「そう、万が一、〈クロガネ・システム〉の存在が神々に知られたとしても、それは灰色に見えるかもしれないけど、決して黒ではない。だから、天罰を受けることはありえない」

「神々って、懐が広いんですね」


「というより、厳格な前例絶対主義。自分たちが作ったルールに、がんじがらめに縛られているのよ。前例のないことには、リスクを冒してまで、独自の判断を下さない。人間界に例えるなら、〈お役所仕事〉といったところかしら」

「なるほど、わかりやすい例えです」


「昔の神々はね。絶対数が少ないこともあって、皆、カリスマ性を帯びていたの。人類に対して生贄を要求したり、自分勝手な行為を正当化したりしては、情け容赦なく天罰を下していた。だけど、今は民主主義の時代だからね。過度の民主主義は、政治と行政の停滞を引き起こす。それは神々の世界も変わらないのよ」


 〈クロガネ・システム〉の存在を神々に知られても、彼らは比企田に天罰を下させないのではないか。それが、比企田の読みだった。


〈クロガネ・システム〉は完璧である。比企田の私利私欲によるもの、と立証することはできない。比企田の動きは迅速だった。10億円を失った十二人に対して、すべての私財を投げうち、〈クロガネ・システム〉活用の権利の一部を譲与することで、示談をまとめている。


 しかし、思わぬ落とし穴があった。比企田の慢心と油断の中に、それはあったのだ。大金を一度に失った衝撃は、容易には消えない。120億円という金額からして、大学時代に味わった挫折の比ではない。


 比企田が心穏やかであるはずがなかった。眠れない夜が続いた。ウトウトしても、不快な寝汗とともに、すぐに目が覚めてしまう。死ぬほどの苛立ちと無力感を味わっていた。


 比企田は売れっ子大学教授である。真面目に仕事をしていれば、生活に困ることなどありえない。なのに、荒んだ気持ちが酒に走らせて、つまらぬ犯罪へと走らせた。路上で寝込んでいた中年男から、財布を抜き取ってしまったのである。


 ケチな犯罪でうさばらしをしたかったのか、ほんの少しスリルを味わいたかったのか、比企田のような立場からすると、〈魔がさした〉としか言いようがない。


 しかも、窃盗事件の一部始終は、防犯カメラにとらえられていた。録画映像には、比企田の顔がはっきりと写っていたのだ。


 めぼしいニュースのなかった時期だったため、マスコミは美中年教授の犯罪を徹底的に叩いた。被害者に謝罪と弁償をおこない執行猶予がついたので刑務所に入ることはなかったが、彼の名誉は地に落ちてしまう。


 比企田は大学教授の職を失い、さらに酒に溺れた。美中年の面影は失われ、今はボサバサ髪に不精ひげの薄汚れた男である。その風貌は、彼が嫌悪していた亡き父と瓜二つ。まるで生きる屍だった。



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