第26話 毒

 鮮やかな桂花の香りが漂う。静蓮は頭を下げたままでいた。


 ——あれ?


 郭淑妃は一切何も反応しなかった。静蓮は戸惑う。ちらりと郭淑妃のほうを見れば、彼女はぞっとするほど恐ろしい憤怒の表情で静蓮を睨んでいた。


「……あの……」


 血の気が引いていく心地がした。


「いけしゃあしゃあと……」


 郭淑妃は恨みと艶を含んだ華麗なる笑い声を立てる。


「下女上がりが。少し前までわたくしと同じ席にいるのもはばかっていたただの下女が。わたくしに教えを請うまでに増長なさって、うふふふ」


 静蓮は一瞬、華紹を思い出した。華紹と同じように叩いて蹴ってくるのだろうか。

 身を縮こまらせていると、郭淑妃は溜息をついた。


「ああ憎らしい。どうしてあなたに主上のご寵愛があるのかしら。大した家の出ではない、隅で震えてばかりのあなたに」


 お許しください、となぜか言えない。責めるなら澄瑜を責めてほしい。


 自分だって好きで澄瑜の寵愛を受けたわけではないのだ。

 いや、好きで受けたわけではないと言えば語弊がある。

 澄瑜は好きだ、彼の幸せを願っている。ただ、半ば無理やりな形で妃嬪にしたのは気にくわない。それに、『熔書草稿』で静蓮の父を悪く書いている。


「何? 何か文句でもあるの?」


 郭淑妃がゆがんだ微笑みを浮かべた。


「わたし……私は、淑妃様がおっしゃるほど寵愛を受けているわけではありません。淑妃様の方がよほど愛されておいでなのでは」


 震えながら言い返す。すると淑妃は激しい憤りとともに静蓮の髪を掴んだ。かんざしが落ち、床へころりと転がっていく。


「いらない情報をありがとう。あなたが寵愛を受けていない話は知っておりますよ、わたくしたち妃嬪は」


 ぎゅう、と締め付けられる髪の痛みに耐えながら、ではなぜという言葉を飲み込む。


「……さて、お茶の飲み方をお教えしようかしら」


 他の妃嬪は黙ったままで事の次第を見届けようとしている。唾を飲み込む音が聞こえた。


「お茶はね」


 ただの普通の茶色の茶が入った静蓮の茶器。その茶器を郭淑妃はガッと掴んだ。 


「こう飲むの」


 静蓮の唇にむりやり茶器をあてがう。


「うぐっ」


 自然と抵抗してしまう。熱いお茶が口の中に入っていくのを受け止めきれず、唇の端からぼたぼたと垂れていく。


「あら。下女殿はわたくしの茶が飲めないのかしら?」

「も、申し訳ございませ、……んぐっ!」


 次第に、舌が痺れていくのを感じた。身体も重苦しくなっていく。


 ——まずい、これ。


 静蓮は皇女だった時、女官や宦官から毒について散々教わった。


 砒霜ひそう附子ぶす巴豆はず狼毒ろうどく斑猫はんみょう——。様々な毒と症状は学んでいる。

 どの毒かは今すぐ判断できないが、明らかに毒を盛られている。


 ——いけない!


 急いで茶を吐き出す。ふらふらと足元がおぼつかない中、床に倒れこむ。

 郭淑妃は静蓮を睨み据えた。


「死ね! 死んでしまえ! 下女あがりが!!」


 すると、するり、と衣擦れの音が響いた。


「妃嬪の皆様方がお集まりのご様子。延滞している本の確認に参りました」


 間の抜けた声。安堵のあまり涙が出そうになった。

 孫賀だった。彼女は腕を組んでいた。


「あと、それから、妃嬪がたがお望みの男性をお連れしました」


 孫賀は横にいる男性を軽蔑の表情で見やる。

 男性は——澄瑜は静蓮のもとへ来ると、茶を吐いている彼女を一瞥し、静かに告げた。


「これはどういうことか」

「……」


 妃嬪は黙り込んだ。郭淑妃は顔を青ざめさせ始めた。


 澄瑜は場にいるどの妃嬪よりも美しい顔を伏せ、静蓮の前に膝をついた。そしてそっと手を差し入れ、彼女を抱き上げる。彼が腕の中に閉じ込めた瞬間、静蓮は安心がさざ波のように胸に広がっていった。


「どうした? なぜ許婕妤が苦しみながら茶を吐いている? 説明せよ」


 皇帝の逆鱗に触れてまで郭淑妃をかばう義理はない。妃嬪たちはすぐに「郭淑妃が」と口にし始めた。郭淑妃はうなだれている。


 范美人が震えながら説明し始める。


「郭淑妃が許婕妤に茶を飲ませたのです! 茶を飲んでから許婕妤のご気分がおかしくなり、……わたくしどもも突然のことで驚いてしまって動けませんでした」


 皇帝はしっかりと静蓮を抱きしめた。


「さようか」


 郭淑妃はうなだれながら、「違う」と述べた。


「違う。わたくしはその下女上がりに毒など……」

「茶を飲んでからおかしくなりました! 許婕妤は! 毒でございましょう! なんたること!!」


 范美人がそう言い切った。彼女は完全に郭淑妃を切り捨てている。


 茶を吐ききって落ち着いた静蓮は澄瑜の指先の冷たさに気づいた。ひどく彼自身も動揺しているらしい。


「では……郭淑妃から話を聞け。許婕妤は養心室へ余が連れて行こう」


 皇帝は静蓮を抱き上げたまま、その場を去った。

 宦官達が皇帝の去った後から影のようにぬっと現れ、大きく息を荒げながら訳のわからないことを呟いている郭淑妃を立たせた。


 郭淑妃は抵抗を始めた。


「嫌です! いや! 下女上がりに何故わたくしが負けなければいけないのです!? 主上、お答えください! わたくしは主上のお子を産むためにこの後宮へ参りました! わたくしを捕らえて尋問すると言うことは、郭一族を敵に回すと言うことでございます! その下女とわたくし、どちらが大事か——」


 孫賀が淑妃に蛇を思わす妖艶な笑みを浮かべた。


「その郭とかいう一族も、娘が他の妃嬪に毒を盛ろうとするほど愚かだったなんて思わないでしょうね」

「な……!」


 郭淑妃が言葉を失っていると、宦官が彼女の両脇を抱えてどこかへ連れて行ってしまった。


 養心室についた静蓮は寝台に寝かされた。

 だが直後、大きく咳き込んだ。

 何かがせり上がってくるような感じがして、素直に吐き出した。

 真っ赤な血であった。


「静蓮様!?」


 枕辺にいた澄瑜が血相を変えた。

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公主、下女に落とされるも泥中の蓮となりて返り咲く もも@はりか @coharu-0423

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