第5章 もつれ
第25話 お茶会
月明かりがその宮殿を冷たく照らしていた。落ちて来るのではないかと思われるほど美しく月が見えることから、その宮殿を
宮殿の母屋に女が二人で差し向かいに立っていた。片方はこの宮殿の主人である郭淑妃、片方は皇太后華紹だった。
華紹は郭淑妃の頬に手をやり、幾つ歳を取っても美しいその瞳に憂いの表情を湛えた。
「かわいそうに。新参者の許婕妤に寵愛を奪われてしまったのですね」
郭淑妃は肩を震わせ、しゃくりあげながら涙を流している。
「は、はい……、ああ、いいえ、皇太后様、主上は、許婕妤を閨には召していないのです、ですが婕妤を迎えてから、誰も閨に召すことはなく——」
許婕妤、という言葉を聞いて、華紹のその切れ長の瞳に鋭く薄暗い光が灯った。
「さようですか。主上の御心は、まこととらえることが難しいもの」
皇帝の母である皇太后はそういいながら、郭淑妃の顎に手をやり、その美しい顔を引き上げた。
——郭淑妃も美しい。けれど、わたくしの息子はもっと美しい。
女性であれば先帝の寵愛を受けて子を産んだであろうほどに息子は美しかった。中身は、小さい頃落馬して左の手の骨を折り、遠乗りなどして帰って来るとすぐに食事を求める腕白坊主ではあったが。華紹は息子に全てを捧げている。
——だというのに、わたくしの息子が想う相手はあの愚かな兄上の娘。
華紹は兄が嫌いだった。
いつもニコニコと笑っていて、温和でおっとりとしている。愚鈍で間抜けな兄。どこが皇帝に向いているのかと叫びたくなるほど華紹を苛立たせる兄。
その兄にそっくりな静蓮。どうやら本は好きらしいが愚鈍で間抜け。しかも、息子の澄瑜を誘惑し続けるいやらしい娘。
あの娘が澄瑜の寝室で何をねだったのか、婕妤になったのは華紹には耐え難いことだった。そして、最近息子が暗に出家を勧めてくるのも癪に障る。
だから華紹は郭淑妃に囁いた。
「悔しくはありませんか?」
愚かなほどに単純な郭淑妃は頷いた。
「……悔しゅうございます。下女上がりが……」
その耳に毒の蜜を流し込む。限りなく優しい言葉で。
「許婕妤はわたくしの元下女だった女。何をどうしても構いませぬ。わたくしが認めます」
「え?」
「これを」
小さな壺を渡した。
「許婕妤に飲ませてみなさい。一瞬にしていなくなることでしょう」
静蓮は
最初の夜以来、澄瑜からの寵愛はない。
——二週間は情熱的に寵愛されるんじゃなかったかしら?
そのかわり、澄瑜からはせっせと贈り物が送られて来る。
——澄瑜殿はきっと私の傷を見て興ざめしてしまわれたんだわ。申し訳ないから贈り物が二週間分送られて来るのだわ。
嬉しいのだか悲しいのだか、恥ずかしいのだかわからないまま静蓮はうつむいた。
すると、婕妤となった静蓮に付けられた女官が一礼して入って来る。
「婕妤様、月落宮にて行われる、お茶の集まりのご用意ができました」
静蓮は頷いた。
廊下を歩いていると、華々しく着飾った女たちがあちこちから集まって来るのが見えた。
静蓮も、蓮を思わす薄桃色の裳を引き、澄瑜に渡された芙蓉のかんざしを着けている。派手といえば派手だ。
婕妤とは美人より上の位だ。范美人より身分高くなってしまった。そのせいか、黄緑色の裳を引いた范美人の一行とすれ違った時、ひどく睨まれた。
月落宮までやってくると、甘やかな香りが一面に漂って来た。部屋の真ん中に桂花(金木犀)が活けられている。そこから漂う香りだとわかった。
郭淑妃が華やかに微笑んでいる。
「皆様ようこそお越しくださいました。桂葉宮から桂花をいただきました」
妃嬪たちがたおやかにお互いを見交わして囁きあっている。
「まあ、いい香りですこと」
その答えに満足したかのように郭淑妃は笑った。
「では、皆様、席にお着きくださいまし」
妃嬪は皆で席についた。静蓮も座る。
女官たちが一人ひとりに茶を給仕する。
──お茶か……。
お茶なんて本当に久しぶりだ。公主だった頃はよく茶を喫していたが。
配られた茶はそれぞれ色が違っていた。黄金色や緑色の茶があるなかで、静蓮の茶はどこからどう見ても普通の茶だ。少しつまらない。
「うふふ、様々な茶葉を取り寄せまして。皆様にぜひご賞味していただきたく」
郭淑妃はたおやかに笑い声を上げた。
「うふふ、許婕妤。お茶なんておわかりになる?」
その言葉に、静蓮は顔を上げた。
「えっと……」
「もともとは下女だった方ですものね、わたくしたちとは育ちがちがうというか……」
郭淑妃の言葉に、范美人が何度も頷いている。
天女もかくやという微笑みを見せながら、郭淑妃は提案してきた。
「ですから教えて差し上げましょうか」
どうしましょう、と静蓮は少し目を逸らした。
お願いしますといえば。皆の笑い者になるだろう。郭淑妃はたぶん静蓮を笑い者にしたいにちがいない。
大丈夫ですと返せば。公主だった頃に茶に関してはある程度の素養は身につけている。しかし、きっと静蓮の正体が疑われる羽目になるかもしれない。
──うーん、ここで知らない風を装っていたほうが良いかもしれないわね。
「お教えを願えればと思います」
微笑みながら一礼する。静蓮はこれで正解だと思った。
ところが。
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