共に【最終話】

それぞれが希望を胸に、目指すべき目標を携えて、仲間たちは自分だけの道を歩き始めていた。


『またね』


それは、笑顔とともに交わした別れの言葉。

またいつか、きっと――そう信じて、誰もが迷いなく手を振った。


そして今――

シンとツバサは、最後の地、大地の竜の神殿へ向かっていた。


禁じられた森の奥深く――。

だが、あの日のような鬱蒼とした空気はもうなかった。

澄んだ風が枝葉を揺らし、森はまるで生き生きと、呼吸をしているようだ。

木漏れ日に目を細めながら歩を進めると、やがて岩壁の神殿が、ひっそりと姿を現した。


「……懐かしいな」


ツバサは、ふと立ち止まり、見上げる。

岩壁に刻まれた古代の文字、重なった苔の匂い。

かつて、恐る恐る手を触れたその扉は――今、彼女を歓迎するように音もなく開かれていった。


― オカエリ、ツバサ

― マッテタヨ


木々や岩の奥から、澄んだ声が耳に届く。

聞き覚えのあるはずのその響きが、今はなぜか胸の奥深くまで、そっと沁みてくる。


「……ただいま」


ツバサはそっと呟き、神殿の中へと足を踏み入れる。

シンもまた、変わらぬ歩調でその背に続いた。


暗い通路にさしかかると、魔導灯がひとつ、またひとつと灯り始める。

あのとき感じた恐れも驚きも、今はない。

代わりにあるのは、静けさの中に満ちる確かな想い。胸の奥に、残された記憶のぬくもりだった。


二人は、最奥の間にたどり着く。

天井の魔石が星のように淡く輝き、石造りの柱が影を落としている。

その中心、祭壇のようにせり上がった円形の台座――かつてノームがたたずんでいたその場所に、そっと翡翠色の卵を置いた。


卵はまるで喜んでいるかのように、ふるふると微かに震え、淡い光を放った。

それは、確かに“生きている”という証。竜の命が、再び大地と繋がろうとしている。


ツバサは、そっとひとつ息を吐いた。

重荷が下りた、というには少し違う。肩の力が抜けたわけでもない。

それでも――心の奥が、澄んだ空のように晴れていくのを感じていた。


「……ここから、全部が始まったんだね」


ふと、ツバサが呟くと、シンは微笑みながら言った。


「ああ――お前が、巫女で良かった」


シンの声は、神殿の穏やかな空気に溶けて、やさしく響いた。ツバサはふっと目を細めて彼を見上げる。

その言葉の裏にあるもの――信頼、感謝、安堵、そして今に至るまでの長い旅路を、自然と感じ取っていた。


「ふふ、シンとはあんな酷い出会いだったのにね?」


ツバサは肩をすくめ、いたずらっぽく笑った。

あの夜の森の中、突然剣を抜いて襲ってきた青年。必死に逃げ、叫び、額に浮かんだ光の文様だけが自分を守ってくれた。

今でもそのときの心臓の高鳴りを思い出すと、背筋がひやりとするほどだ。


「……思い出すと、今でもちょっとぞっとするよ」


ふるりと肩をすぼめて小さく身震いしながら、ツバサはくすくすと笑う。

シンはわずかに視線を逸らし、肩の後ろをぽりぽりとかいた。


「……仕方なかっただろ。お前が“本物”かどうか、俺にも見極める必要があったんだ」


その声に、わずかな照れと、言い訳にも似た後悔が混じっていた。

自分に課された役目――“巫女を守る”という宿命。その重圧の中で、彼は誰よりも慎重でなければならなかったのだ。


ツバサはそんな彼の横顔を見つめながら、小さく笑った。


「ねえ、あの時は怖かったけど……今となっては、ああいう出会いだったからこそ、ちゃんと向き合えたのかもって思う」


「……向き合う、か」


シンはその言葉を反芻しながら、目を細めた。

あの時、確かに彼は剣を抜いた。ツバサを試すために、容赦なく。けれど彼女は、それでも怯まず、彼の素顔を知ろうとしてくれた。

あの柔らかな瞳に、優しい言葉に、自分は――救われていた。


「こんなに距離が縮まるなんて、あの時は思いもしなかったよね」


ツバサの言葉に、シンもふっと表情を緩ませる。

今はもう、剣も敵意もいらない。隣にいる彼女の存在は、旅路の中でいつしか“守るべき巫女”ではなく、“共に歩む仲間”へ、そして――かけがえのない人へと変わっていた。


「……本当に、お前が巫女で良かった。俺の人生に、お前がいてくれて良かった」


照れ隠しもなく、まっすぐに告げられたその言葉に、ツバサは頬をゆるめる。

それは過去のすべてを肯定するような、穏やかな笑顔だった。


――ふたりの間に流れる時間が、旅の終わりを優しく包み込んでいく。



「これで……私たちの役目も、終わりだね」


ツバサの静かな一言に、シンは短く「ああ」とだけ応えた。

その声音には、わずかにためらいのような翳りがあった。


ツバサは首を傾げ、そっとシンの横顔を覗き込む。


「どうしたの?……寂しい?」


旅の終わり、竜たちとの別れ。

そして、それぞれが自分の選んだ場所へと歩き出すということ――

そのすべてが、ツバサの胸をほんの少し、きゅっと締めつけていた。


けれど――シンが抱えていた寂しさは、少し違っていた。


「……ああ、寂しいな。お前は村に戻るんだろ? この旅が終わったら」


その言葉の意味に気づいた時、ツバサは目を瞬かせた。

彼の“寂しい”は、旅の終わりでも、竜との別れでもなく――ツバサとの別れだったのだ。


「……うん。私も、寂しい」


少し不器用で、けれど純粋な想いだった。

その言葉にシンはしばし沈黙し、やがて意を決したように口を開く。


「ツバサ。……俺の村に来ないか?」


思いがけない誘いに、ツバサは一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。

冗談かとも思った――けれど、シンの目は真剣そのものだった。


「ツバサ……俺、ずっと考えてた。

――お前の隣で未来を見たい。そう言ったこと、覚えてるか?

……これからも、共に生きてほしい」


そっと肩に触れる彼の手。

まっすぐな眼差しには、迷いも飾り気もなかった。


ツバサはしばらく、そのまなざしを見つめ続けた。

そして、やがて――ふっと、心からの笑みがこぼれる。


「ふふ、変なの。

旅の終わりが、私たちの終わりだなんて……誰が言ったの?

私はね、ずっとシンのそばにいるつもりだったよ。

あの日、約束したときから……ううん、きっとそのずっと前から、そう思ってた。……だから――」


その瞬間、シンの表情がやわらぎ、心にあった迷いがすべて溶けていく。

彼は何のためらいもなく、ツバサをしっかりと抱きしめた。


その時だった。


ツバサの額に浮かぶ文様が、ほのかに輝き始める。

ふたりの心が重なったことで、神殿全体に、柔らかな光とともにマナが満ちていく。

柱の文様がほのかに輝き出し、壁面を走る魔導文字が脈打ち始める。


「っ……ちょっと、待って!」


ツバサがシンの肩を押して振り返った瞬間――


「ツバサ……おまえな……」


シンは呆れたように息を吐きつつも、自然とその手を卵の方へと向ける。


卵が、音を立ててひび割れていく。


パキ……パキ……


亀裂の走る音が、神殿の静寂を切り裂くように響いた。

殻の内側から眩い光が漏れ、やがてその中から、小さな竜が姿を現した。


生まれたばかりの竜は、小さく息を吐きながら、ツバサの指先へと顔を寄せた。

その翡翠の鱗は、神殿の光に照らされて淡くきらめいている。


ツバサは、そっとその身体を抱き上げる。


「……おかえり、ノーム」


その一言には、別れの寂しさも、旅の苦しさも、すべてを超えた温もりが宿っていた。


禁じられた森で出会った、運命。

すべての始まりだったあの出会いが、いま――確かな形となって、ここにある。


新たな命の誕生を祝うように、魔導具が淡い光を放ち、ツバサとシン、そして生まれたばかりの竜をやさしく照らしている。


二人は目を合わせると、微笑みが自然とこぼれた。

言葉にしなくてもわかる。


これからも、同じ歩幅で、同じ道を歩いていくということを。



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<あとがき>

これをもちまして、本編および外伝はすべて完結となります。


本作は、私にとって初めての長編作品であり、強い思い入れのある物語でもあります。

何度も何度も納得のいくまで書き直し、それでもなお言葉にしきれない想いや、うまく伝えきれなかった感情がたくさんありました。


執筆を通して、皆さんの作品に触れながら学ぶことも多く、少しは物語を紡ぐ力が育ってきたかな、と感じています。


ツバサとシン、レイナ、ソウマ――それぞれの人生は、これからも続いていきます。

彼らが交わした『またね』の言葉の通り、いつかまた、どこかで彼らと再会できる日を楽しみにしていただけたら嬉しいです。


最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

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竜の涙 ~眠れる竜と目覚めの巫女~ @haricots

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