雛の恋

𦮙

雛の恋

雛重ひなえって春親はるちか様のこと好きなんでしょ?」

 同僚の早桃さももちゃんにわたしの一世一代の秘密を指摘され、思わず長柄ながえを落としそうになった。

「ど、どこでそれを?」

「だってず~っと春親様の方熱っぽく見てるじゃん。色に出でにけりだよ~」

 したり顔の早桃ちゃん。そんなに分かりやすかったかと居た堪れないと同時に若干の悔しさが込み上げてくる。

「早桃ちゃんだって、五人囃子のはなぶさくんのことずっと見てるよね?」

 思わず対抗するように言ってみるが、これは周知の事実であるため大した痛手にはならないだろう。

「そうだけど私の場合は、『遠くからひっそりと眺めて、私ではない誰かに向けて笑う横顔を肴に花見酒をしたい』って感じだからさ。雛重とは違うの」

「そ、そうなんだ……」

 早桃ちゃんはわたしの胸の内が筒抜けなのに、わたしには早桃ちゃんの考えていることがいまいち分からない。人の懐に入るのがうまく、かつ自分の心を適度に披露することも忘れない優秀な同僚との力量の差を思い知る。

「いつから好きなのかも当ててあげようか。二年前、野良猫がこの部屋に入ってきたときからでしょ」

「正解……すごいね早桃ちゃん」

 一昨年、早桃ちゃんが言うとおり一匹の三毛猫が我が物顔で縁側からこの家に侵入してきた。

 もうそれだけでわたしや早桃ちゃんは戦々恐々としていたのに、あろうことかその猫は牛車や菱餅を倒しながら一段また一段と雛壇を上り、とうとう三人官女が並ぶわたしたちのところまでやって来たのだ。

 上におわす弥彦様と佐保姫様をお守りしなければと長柄を上に振り上げたところで、猫の魔の手がこちらに伸びてきた。運悪く爪が髪に引っかかりおもちゃのように弄ばれる。首がちぎれそうな痛みと恐怖に使命も忘れ涙目で硬直してしまった。

「こら! 雛重を離しなさい! この!」

 提子ひさげや徳利を投げ早桃ちゃんが応戦してくれるが、猫はちっとも意に介さない。

 もうだめ……! と覚悟を決めたそのとき。

「ふぎゃ!」

 猫は突然悲鳴をあげ爪を引っこめた。そして悠々と来た道を今度は慌てて駆け下りていく。春の陽光に消えていく三色の後ろ姿を呆然と見送れば、緋毛氈の上に残る一本の矢羽に気付いた。直ぐに持ち主が思い当たり、ハッと下段を見遣れば右大臣の春親様が弓を片手に手を振っている。

「けがはないか」

「は、はいっ」

「それは重畳」

 そのとき安心したように笑う春親様に、わたしは恋をしたのだ。

「分かるよ~絶体絶命に陥った自分を助けてくれる貴公子に思いを寄せちゃうの。それがあの、文武両道眉目秀麗の春親様なら尚更だよね」

「本当に? 身の程知らずって笑わない?」

 天皇である弥彦様からの信も篤く、やんごとなき位のお方だ。弓の扱いに長け、少しだけ赤みの差した真っ白なお顔が健康的でまさに美丈夫そのもの。路傍の石同然の娘にとっては憧れることさえ烏滸がましいとこの恋に前向きでいられなかったのだけど……。

「何言ってるの。女官になったからには素敵な殿方に見初めて見初められて、でしょ」

 ぱちんと滑らかに片目だけを瞬かせる早桃ちゃんに、知らぬ間に私を取り巻いていた靄が晴れたようだった。

「有り難う。早桃ちゃんにそう言ってもらえると、わたしなんかが好きでいてもいいんだって……」

「そうと決まれば文! 文を送らないと!」

 わたしが言い終わらないうちに勝手に張り切り始める早桃ちゃん。あんまりはしゃぐと……。

「早桃さん、雛重さん! 口を動かす暇があれば手を動かしなさい! 親王様が次のお酒をお待ちですよ!」

「はい!」

 騒がしくしていたせいで先輩の若草様にとうとう叱られてしまった。声を揃え返事をしたわたし達は、いそいそしゃなりしゃなりと自分の仕事に勤しむのだった。




 その後ろ姿を見つめるだけで十分。視線が重なれば御の字。そうやって自分の恋心を慰めていたから、早桃ちゃんが文を書こうとけしかけたのはほんの戯れ言だと気にも留めていなかった。仕事終わりに彼女が立派な紙を持って来るまでは。

「ここここんないい紙どうしたの、まさか盗」

「んでないってば。佐保姫様にね、友だちの恋をどうしても応援したいんです~って泣きついて、譲っていただいたの」

 先輩・上司にはかわいがられ、同僚からは頼られ、後輩からは慕われる。知ってはいた彼女の優秀ぶりに改めて平伏する。

 そうして友人の厚意にこたえるべく筆を執ったが……。

「相変わらず字は一級品なのに、うたがねぇ」

 墨の乾いた紙を目の前に掲げ、早桃ちゃんは呆れ半分感心半分の口ぶり。

「『などて君朧月夜にひとり寝む我よりほかにしくものはなし』。うーん、相変わらず技巧に走りがち」

「仰る通りです……」

 風の噂で春親様は源氏物語がお好きだと耳にしたので、この時期らしく「朧月夜」の巻を踏まえてみたのだけど、わたしの悪癖そのまま、早桃ちゃんの指摘の通りの仕上がりになった。

「ま、うたは苦手でも書で名を残した権蹟行成様がいらっしゃるんだもの。ひとりくらいこういう姫がいてもいいでしょう」

 時間も時間なので代作を頼むあてもない。早桃ちゃんはそう言いながら紙を畳み、これまた佐保姫様から賜った桃が枝を添えた。

「扨、英君に遣いを頼んでくるわね」

「待って、やっぱり書き直してもいい?」

 ――――どうしてあなたはこんな朧月夜に独り寝なんてなさるのですか。一緒に眠るなら、わたし以上に相応しい相手はおりませんのに。

 こんな歌意の恋文を、冴えない女が贈るなんてかっこうの嘲笑の的ではないか。そんな不安が泉のように滾々と湧き出てきたのだ。

 意気地なしのわたしの内情を悟ったらしい早桃ちゃんが、わたしの方に戻ってきて視線を合わせてしゃがむ。

「恋をしたらね、女はみんな小野小町もかくやなのよ。好きな人を見つめて黒曜石のようにきらめく目に、うっすら紅に色づく頬。これ以上女を綺麗に魅せる化粧は無いの。だから自信を持って、今日の夜待ってなさい」

 唯一無二の友に堂々と断言されると、さっきまでの自信の無い己が嘘みたいに消えていく。覚悟は決まった。今夜、わたしはこの恋に挑戦する。




 人形の本領は人の子が寝静まった夜になってからだ。

 立派な構えに相応しく常日頃客も多いこの家に昼の騒がしさは見当たらない――――この間を除いて。

 雛壇を下りた五人囃子が楽器を奏で、酔って饒舌になった左大臣様が弥彦様にお酒を注いでいる。なんともにぎにぎしい雰囲気だ。興の乗った左大臣様に酌や配膳を矢継ぎ早に頼まれるのが普段だが、今夜は「私に任せて」と一手に引き受けた早桃ちゃんのおかげでわたしは赤い布の上で思い人の訪れを待っている。

 やがてその時を迎える。

「こんばんは。春の夜の夢のような手枕がこちらにあると伺い馳せ参じました」

 屏風の向こうからひそやかな声が届く。お姿が遮られようとも、闇に紛れようともともこのお声の持ち主なら何時でも分かる。春親様だ。

「枕ですか? 眠るにはまだ早いかと存じますが……」

 まずは、まずはそう。駆け引きから。安く見られるわけにはいかないのだ。ばくばくと忙しなさを増す心臓を悟られないよう冷静に振る舞う。

 高飛車にとられかねないわたしの態度に、春親様は気を悪くした様子もなく言葉を紡ぐ。

「では姫。わたしと一緒に、今宵の朧月を楽しみせんか? 願わくは、春の曙まで」

 そうして差し出された真っ白な手の平に、緊張で震える指先をわたしはゆっくり載せた。




「蝉は夏を知らないそうです」

 今日も今日とて飽きもせず空を見上げるわたしたちを、輪郭のはっきりとしない月があたたかみのある光で包み込む。

「え? 夏だけは知っているのでは?」

 浮かんだ疑問がすぐに口をついて出るわたしを春親様が視線だけでちらりと見遣り、また月に視線を戻す。

「大師様のお言葉は深淵で浅才の身で理解することは到底かなわないのですが……夏だけに生きる蝉は、他の季節を経験したことがないためその特色が分からないように、物事は比較の中で理解されるとわたしは受け止めています」

「なるほど……」

 考えもしなかった蝉の有り様に感心のあまり単純な納得の言葉しか出てこない。

「それで言うと、我々は春を知らない」

「雛人形の宿命ですね」

 年に一度、桃の節句の時期にだけ箱から出されるわたしたちは、確かに土の中で長く眠ったのち短い季節を謳歌する蝉と変わらない生き方なのかもしれない。

「ですが、そんなわたしでも、美しい月を知っています。数多の夜を過ごし、日々形を変える月を見上げてきたわたしなら。――――雛重殿、貴女と並んで見る月がいっとう美しいと」

 思いもしなかった言葉に胸が詰まり、「光栄です」とつまらないいらえで精一杯のわたしとは反対に、春親様は流暢に言葉を続ける。

「貴女がいなければ、美しい夜は永遠に訪れない。どうか永久とこしえに、わたしの傍に――――」




 わたしの願いも虚しく、それからいくつもの春をわたしたち雛人形は箱の中で過ごした。

 それはつまり、この家の娘らが無事大きく育ったということ。これまで何回も喜んできた通過点。でも、今回は……お祝いと祈願のための調度品にあるまじき気持ちが沸いてきそうで怖かった。

 春親様と別々の箱に仕舞われたわたしは、努めて思い出さないことにした。お顔。お声。いただいたお言葉。喜ぶごとに陽だまりが生まれたようにあたたかくなる胸の内。やわらかそうな春の闇の低い位置に佇むまろやかな月。なにもかも、全てを。

 三人官女同士早桃ちゃんと同じ箱に納められたのは幸いだった。ほこりのように幾重にも積み重なった思い出を語り気晴らしにする。この時ばかりは厳しい若草様もひっきりなしのお喋りを咎めたりせず、会話に加わることもあった。

 それから何度季節が巡ったのかも分からないまま長い長い月日を過ごし、軈て再び蓋が明けられた。

「これなんですけど、どうでしょう?」

 頭上で覚えのない大人の女の声がする。どの娘だろう。それとも最早、誰の娘と言うべき頃合いか。

「おお、こりゃまた随分とかわいらしい。状態もいいですから、今ならだいぶ高く売れますよ」

 更に知らない男がこちらを覗きこみ、まじまじと見つめながら女衒のようなことを言う。

「本当にいいんですか?」

「はい。こうするのが一番良いと思っておりますので」

「では――――」

 そこから先は再び影を落とした蓋に遮られ知ることができなかった。



 それからあまり日を置かずわたしはまた明かりを取り戻した。箱の外に出され、それだけでなく再び赤い敷物の上に丁寧に並べられたのだ。ただし、あたりの景色はまるで違った。床も壁も天井も真っ白。目の前には透明な板があり、雛壇と広い空間を隔てている。

 ここは一体どういった場所なのだろう。答えはおいおい知ることになる。

「雛重殿」

 聞き慣れた、春のこもれびのように穏やかな声によって。

「春親様!? どうして……あの、わたしには何がなんだか」

「ここは人形の博物館でね。わたしたちは嘗ての持ち主に寄贈され、ずっと飾られることになったんだ」

 混乱するわたしより一足も二足も先に取り出された春親様は、人間の会話から凡てを把握していた。

「ずっと? わたしたちはもうあの家には帰れない……?」

 長年大事にしてきてくれた持ち主との耐え難い別れの事実に打ちひしがれてしまう。役目を終えたという達成感は無く、無能と書かれた札を張られた気分だった。

「そういう意味のずっとでもあります。でももっと単純に、これからは一年を通して大勢の人に見ていただけるということです」

 人形の本懐の一部を取り戻せて一安心すれば、遅れてじわじわと別の喜びが湧き上がってきた。

「では、これからは、春親様と……」

 おずおずとたずねるわたしに、春親様が同意の証拠に目を細める。

「わたしはもう、月を知らない。この部屋の様子だと、四季を知ることも難しいでしょう。でも、愛を知っている。貴女の不在を知ったから。どうか、わたしの愛を、受け入れて下さいませんか」

 差し出された手の平に、最初の夜が蘇る。ずっと封じてきた懐かしい記憶なのに、それはいつだって鮮やかで色褪せない。

「もちろんです」

 今度は震えず、その手を取ることができた。

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雛の恋 𦮙 @sizuka0716

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