第9話
空港の自動扉が開いた瞬間、湿った夜気が肌に纏わりついた。帝国とは質の違う、濃厚な潮の香りと、どこか神聖さを感じさせる檜の匂い。視線の先では、ホログラムの鯉が泳ぐ巨大なデジタルサイネージの背後で、朱塗りの大鳥居が静かに街を見下ろしている。古と未来が同じ呼吸をしているかのような街並みだ。
「噂には聞いていたが……ここがヤシマか。大気中の魔素まで、どこか粘っこくて水っぽい感じがするな」
「感想はいいが、あまりはしゃぐなトリハシル。目立つぞ」
タクシーを降りたテネシアは、スマホの地図アプリを頼りに、複雑な路地へと足を踏み入れた。石畳の隙間から伸びる苔、軒先に吊るされた和紙の灯籠、どこからか漂う線香の香り。異国であると同時に、不思議な懐かしさが胸に広がった。
目的地は、ヤシマでも屈指の術者が集うとされる「白澤院」。
呪いや術式に精通した者がいれば、あの戦いで起きた現象―アイリスを蝕んだ、あの力の正体にたどり着けるかもしれない。
境内に足を踏み入れた、その瞬間。空気がガラスのように硬質に変わった。
風は凪ぎ、街の喧騒が嘘のように遠ざかる。耳の奥を圧迫するような、静かな霊圧。目には見えない膜を通り抜けた確信が、肌に粟を生じさせた。
「おい小僧、これは相当な手練れだぞ」
トリハシルの警告と同時だった。
「遠き西の国より、よくぞ参られた。貴方のような強い我を持つ魔術師が訪れるのは珍しい」
拝殿の奥から、低く落ち着いた声が響く。姿を現したのは、白い狩衣に黒烏帽子をまとった壮年の男。鋭い眼光を湛えながらも、その佇まいは深い水面のように静謐だった。
「拙僧、この白澤院にて院主を務める、結城と申す」
軽く会釈し、テネシアは躊躇なく本題を切り出した。
「突然すまない。私はテネシア、テネシア・バレンタイン……ある戦いで、私は回復魔法がまったく効かない傷を負った。仲間も同じだ。治癒という法則そのものを拒絶する……そんな力だった」
結城は腕を組み、ただ無言で耳を傾ける。
「さらに、刺客は“口封じの呪い”を受けていた。私たちの知る西洋魔術では説明しづらい現象だ。……もしかしたら、ヤシマの術に近いものかと」
長い沈黙の末、結城は細めた目をテネシアに向けた。
「……それは、おそらく”結界術”の応用でしょうな。口封じの呪いはまた違うものではあるが」
「結界……?」
「いかにも。結界とは、ある範囲に“別の法則”を上書きする術。例えば、『ここでは回復魔法は無効である』という理を空間に刻み込む。西では攻撃や防壁が主流ゆえ、呪いを防ぐための結界は発達しなかったと聞く。しかし、東では古来より“呪いを祓い、場を清める”ため、別法則を刻む術が磨かれてきたのです」
テネシアの視線が鋭くなる。あの時の無力感の正体が、目の前に差し出されていた。
「……つまり俺は、敵の結界の中に閉じ込められていた、と」
「左様。そして、術者の技量次第では、敵の結界内であろうと新たな結界を展開し、その法則に干渉し、中和することも可能です」
テネシアは短く息を吐き、決意を込めて言った。
「……教えてほしい。その技を」
結城は初めて、わずかに口元を緩めた。
「よろしい。ただし、心得ていただきたい。こちらでは魔力を“呪力”と呼びます。源は同じでも、力任せに押し出すのではなく、流れを編み上げるように扱う。扱い方はまるで異なりますぞ」
⸻
修行初日・白澤院 奥庭
朝霧が白砂の庭を覆い、濡れた竹林から小鳥の声が響く。
結城は庭の中央に立ち、扇をひらりと開いた。
「まずは、結界の基本。空間に満ちる気を知り、己の理を識(し)ることから」
配置された数枚の護符が淡い青光を帯び、庭全体の空気がねじれたように変化する。肌を刺す霊的な圧力と、耳の奥で唸るような低音。
「これが私の結界です。内部では外界の魔力法則が遮断され、私の定めた理が優先される。さて──この中で、貴方の世界を作ってみなさい」
テネシアは目を閉じ、魔力を練り上げる。
学院で培った制御力には絶対の自信があった。だが、足元に陣を描き、魔力を流し込もうとした──瞬間、陣はガラスのようにひび割れ、光の破片となって霧散した。
「……っ、早い」
「今の貴方は、力で無理やり形を押し付けようとしている。それではただの魔力放出です。結界とは、流れを読み、気を編み、境界を“引く”もの」
何度も、何十度も挑戦するが、結果は同じ。光は弱まり、形は崩れ、指先から制御を失った魔力が零れていくだけ。帝国での常識が、ここでは全く通用しない。焦りがプライドを削っていく。
昼を過ぎ、夕陽が庭を茜色に染め始めた頃。手首が鉛のように重く、魔力も枯渇しかけていた。
(……クソ、なぜできない)
苛立ちのままに力を込めるのを、ふと、やめた。諦めにも似た脱力。押し出すのではなく、ただ、自分の内と外を分けることだけを意識する。境界を引く、と。その時だった。
テネシアの周囲に、シャボン玉のように薄く揺らめく半球が、かろうじて姿を現した。触れればすぐにでも破れそうなほど脆いが、それは確かに“境界”だった。
「……これが……結界……」
ぜ、と荒い息を吐くテネシアに、結城が静かに声をかけた。
「拙い形ですが、初日にしては上出来でしょう。貴方は今、己の力で初めて、新たな世界の法則を紡ぎ出したのですから」
その言葉は、敗北感で固まりかけていたテネシアの胸に、火種のような熱を落とした。
結城はゆっくりと半球の縁に指を触れる。軽く押しただけで、半球は波紋を広げるように揺れた。
「……脆い。だが、形になった以上、鍛えれば刃にも盾にもなる」
そして、わずかに目を細め、口元をわずかに緩めた。
「次は、殺すつもりでかかってきなさい」
圧を孕んだ低声に、庭の空気がわずかに震えた。
テネシアは疲労で重い腕を握りしめ、にやりと口角を上げた。
(上等だ……結城さん)
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魔法使いは転ばない!リライト GPA3.0 @haiburando
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