第8話
グレンデルの街を後にしたテネシアは、高速鉄道の中央駅で切符を買い、帝都行きの最終便に滑り込んだ。夜の帳が降りる頃、窓の外に広がる景色は暗く沈み、時折ぼんやりと光る街灯と、遠くに浮かぶ都市の灯りだけが線のように流れていく。
「はあ……」
リクライニングシートに深く身を沈めると、テネシアはポケットからスマホを取り出した。ディスプレイに表示されるのは、先ほどキャッシュで辛うじて拾い上げた断片的な情報。キーワードは「アストラル・セクト」。
「やはり、情報が少ない……いや、意図的に消されているのか」
スクロールする指が止まる。匿名掲示板に投下されては数日で削除される、内部告発めいた書き込みの数々。
『アストラル・セクトの本拠はアーベリア自由連合の北部、フェアクロウ自治区にあるらしい。表向きは慈善魔女団体だが、裏では違法な魔力研究や暗殺まで関与しているという噂も……』
「アーベリア、か」
「おい、小僧」
不意に、帽子の中からトリハシルの声がした。
「気になってたんだが……あの時、回復魔法が効かなかったんだろう?」
「……ああ。アイリスにも、自分自身にも、ほとんど効果がなかった」
テネシアは端末から顔を上げ、窓の外の闇に視線を移す。あの時の無力感が、冷たい感触として蘇る。
「だろ?ありゃあ、ただの傷じゃねえ。お前の回復魔法が弾かれたんだ。何かしらの回復阻害……それも、かなり強力な呪いが付与されてたに違いねえ」
「呪い……」
テネシアの眉間に、わずかにしわが寄る。
「あの刺客の女が口封じの呪いを受けていたように、奴らは呪術に長けているのか。傷を与えると同時に、治癒を許さない呪印を刻む類の攻撃……」
テネシアは黙って聞いていたが、静かに首を振った。
「それだけじゃない気がする。もっと……根源的な何かが内側から削り取られるような感覚だった。回復魔法を発動しても、その魔力ごと別の法則を持つ空間に吸い上げられていくような……そんな違和感があった」
「別の法則を持つ空間だと……?」
トリハシルの声に、初めて焦りの色が混じる。
「馬鹿な、そんな芸当ができるとすれば……アストラル・セクトとかいう連中、思った以上に厄介だぞ」
なぜ回復魔法は意味をなさなかったのか。そして、アイリスの遺体は何処へ消えたのか?
テネシアは思考を振り払うように小さく首を振る。今は目の前のやるべきことに集中しなければ。まずは帝都の自宅に戻り、海外渡航に必要な身分証を手に入れる。アーベリアへ行くには、正規の手続きを踏むのが最も確実だ。
やがて列車が帝都ベスガルティア駅への到着を告げるアナウンスを流し始め、テネシアは帽子を目深にかぶり、顔を見られないように通路へ向かった。
⸻
帝都・ベズガルティア。
駅の喧騒を抜けたテネシアは、夜陰に紛れて 市街地の外れにある自宅を目指した。皇都の中心からは少し離れた、伝統的な貴族が多く住む区域。静まり返った石畳の通りを抜け、彼は慣れ親しんだ鉄門の前に立つ。
錠前に手をかけると、わずかにカチリと音がした。中に人気はない。両親はまだ公務だろう。そっと扉を開け、音を立てずに大理石のホールを横切る。
階段を上がり、自室へ向かう途中―
「……侵入者かと思ったぞ」
鋭く、けれど静かな声が背後から響いた。反射的に振り向き、身構えたテネシアは、廊下の奥に立つ男の姿に息を呑む。
クラウス・バレンタイン。テネシアの実兄にして、帝国近衛兵団に所属するエリート魔術師。完璧に整えられた暁闇色の髪と、彼の揺るぎない精神を体現するかのような軍装が、闇の中で静かな存在感を放っていた。
「兄さん……」
「どこへ行っていた」
感情の読めない声。ただ、テネシアと同じ黄金の瞳の奥に、静かな怒りのような色が宿っていた。テネシアは視線を逸らし、無言で兄の脇をすり抜けようとする。
「待て」
短い命令に、足が縫い止められる。
「今のお前の魔力は、ひどくささくれ立っている。何かを背負い込んでいるようだが、それは一人で抱えるべきものなのか、よく考えろ」
テネシアは一瞬だけ動きを止め、しかし何も答えずに自室へと歩き出した。
パスポート、数種類の通貨、モバイルバッテリー、最低限の着替え。封印されたクローゼットの奥からそれらを取り出し、収納魔法で亜空間に格納していく。
再び階下に降りると、玄関の扉の前にクラウスが腕を組んで立っていた。
「……空港まで送る」
「一人で行ける」
「分かっている。だが、兄として、これだけは譲れん」
しばしの沈黙の後、テネシアは小さく息を吐き、肩をすくめるように頷いた。
⸻
帝都南部国際空港。
朝焼けが滑走路をオレンジ色に染め、夜と朝の境界が世界を塗り替えていく。搭乗手続きを終えたテネシアは、出国ゲートの前で足を止めた。
「ヤシマ皇国経由でアーベリアへ飛ぶ。俺がこれから行く場所は、平和でも安全でもない。……帰ってこられないかもしれない」
テネシアの告白に、クラウスは表情一つ変えずに答えた。
「分かっている。だが、それでも行くのだろう?」
「……ああ。アイリスを……必ず取り戻す」
「ならば行け、テネシア」
クラウスは弟の肩に手を置いた。
「そして――生きて戻れ。お前を待つ者が、ここにいることを忘れるな」
テネシアは、ほんのわずかに目を見開き、そして小さく微笑んだ。兄に背を向け、ゲートの向こうへと歩き出す。
その背中は、もう少年ではなかった。世界の闇に、たった一人で立ち向かう覚悟を決めた戦士のそれだった。
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